2013年4月29日月曜日

4月28日

 頭上すれすれに「寡婦製造機」と呼ばれるオスプレイが飛ぶ。

偵察機が普天間基地から飛び立ち、輸送機が基地に戻る。
それが宜野湾市の日常だ。

基地のゲート前では、朝早くから夕方まで、
60代から70代の地元の人々が、
「NOオスプレイ」と書いた紙を手に抗議行動を続けている。
その前を通過する車の中から、
少なからぬ人々が手を振って通り過ぎしていく。
頭を下げて、会釈するひとも。
「屈辱の日」のノボリも至るところに。

思い出したのが、ジークムント・バウマンのあの言葉だ。
……社会はあらゆる危険と矛盾を生産し続ける一方で、
それらへの対処を個人に押し付ける……。

沖縄の歴史はまさにそうであったはずだ。

サンフランシスコ講和条約が発効した1952・4・28は、
沖縄が日本から分離され、置き去りにされた日である、
という沖縄の人々の言葉に、東京で暮らす私も深く共感する。

その「屈辱の日」に、「なぜ、いま、主権回復の日」として記念式典をひらくのか。

沖縄の人々の人権、主権は回復してはいない。
米軍や米兵は、日米地協定で特権を保障されたまま。
いまもって日本にある米軍基地の74パーセントは沖縄にあり、
酸鼻な事件は跡を絶たない。

「銃剣とブルドーザー」と言われた、強制接収による基地建設。
銃剣はそのまま、そこにオスプレイまで加わった。
2004年海兵隊の大型ヘリコプターが、
国際大学構内に墜落炎上した事故があった。
「事故」とメディアの多くは報道したが、
その後の米国の対処からいえば「事件」であったはずだ。

米軍が現場周辺の民間地を封鎖をしてしまい、
沖縄県警の現場検証さえ、拒否したのだから。

米兵によるひき逃げ事件や暴力事件、性暴力事件も後を絶たない。

現政権は国防軍とか集団的自衛権とか96条改変とか、
平和憲法改変には熱心でありながら、
さらに極めてナショナリステイックな発言を重ねながらも、
他方で、沖縄の主権を一貫して侵害し続けてきた。

この差別構造はそのまま、
危険極まりない原発を過疎地と呼ばれるところに押し付け、
そして福島第一原発の過酷事故を迎え、
それでも原発を推進していく流れと似ている。

せんだっての核兵器の人道的影響に関する共同声明にも署名せず、
特に広島・長崎の人々を失望、怒らせたこの国の政権である。

「違憲国会」が、違憲のまま歴史にも個々の痛みに対しても想像力欠如させたまま、
「主権回復の日」を祝った、ということでしかないだろう。

今日は東京での仕事。

明日は3・11以降、自宅兼アトリエのあった福島から関西に居を移した彫刻家・安藤栄作さんの
はじめての絵本『あくしゅ だ』刊行を記念して、丸木美術館で、安藤さんとトークをする。
津波で愛犬と共に、すべての作品を流された安藤さん。
脱原発を心に活動を続ける安藤さんと久しぶりにお目にかかって、お話ができる。
この前に安藤さんとお目にかかったのは、昨年の3月。霙降る銀座の画廊だった。

クレヨンハウスの朝の教室にいつも参加してくださる女性から、
安藤さんのブログを紹介され、その言葉の深さと切実さに惹かれて、出かけていった個展。
そこではじめて安藤さんにお目にかかり、作品を拝見している間に、
絵本を描かれたら、と思い……。

そんな日々の中で『あくしゅ だ』は生まれたのだ。

埼玉県東松山市原爆の図丸木美術館から:
安藤栄作さん&落合恵子さん対談イベント 

4月29日14:00から。
13:00に東武東上線森林公園駅南口から
美術館への送迎車が出る。
参加費500円。入館料800円も別途必要。

2013年4月25日木曜日

4月25日

沖縄から帰京。
いつもそうなのだが、沖縄を訪れると、そして美しい海や
ハイビスカスのあざやかな色の南の花を見ると……。
さらに穏やかな口調と穏やかな表情のかの地の人々と
お話しをするたびに……。
この人々の、長い忍従と犠牲の上に、
わたしたちは暮らしてきたのだと痛感する。
今回の取材は主に、頭上をオスプレイや偵察機が飛ぶ、
保育園の日常についてだった。
4月28日の「主権回復」の式典を前に、
基地のフェンスや周辺には「主権回復」ではなく、
「屈辱の日」の文字が風にはためく。
確かにそうだ。
穏やかな人々をこれほど憤らせることを
この国の政府は、そして米国はしているのだ。
保育園取材のあくる日、思い立って基地のゲートに行ってみた。
そこで抗議行動をしているひとたちが
今朝もいるかもしれない、と聞いたからだ。

ウィークデイの朝8時45分。
数人の女性と男性が、オスプレイNOと書いた紙を手に
すでにゲート付近にいた。
ゲートを守るのは、沖縄県警である。
「落合さん、昔、雑誌に原稿を依頼したことあるんですよ」
そんな風に声をかけてくださったひとりの男性は70代。
定年を迎えてから、沖縄に移住されたという。
学校の教師をされていたという女性は繰り返す。
「また戦争をしたいのでしょうか、この国は。
基地にもオスプレイにも反対ですが、基地に居る
まだ10代の兵隊を見ると……いろいろな問題を
起こしている兵隊もいますが……多くは、何も知らない、
知らされていない若者です。彼らをもまた、
戦争に巻き込みたくないと心から思います」

抗議行動を続ける人々はお昼すぎに、
次のグループと交代して、日々休むことはない。
平日ということで、人数も少ないが、
広い道路を行きかう車にも丁寧に手を振るひとたち。
車の運転台から手を振り返してくれるひとたちも多い。

沖縄も福島も、
ある地域の人々とその暮らしを犠牲にすることに
痛みを感じないやりかたは同じだ。

見てきたこと、感じたこと、考えたことを、さ、
原稿をにまとめなくては。

チェルノブイリ原子力発電所事故1986年4月26日1時23分(モスクワ時間)
あれから27年。

2013年4月21日日曜日

4月21日

昨日から、冬に逆戻りしたような寒さだ。
一度仕舞い込んだレッグウォーマーがまた活躍してくれている。
昨日は「朝の教室」を終えて、大田区での講演を。
前夜から25枚の連載のまとめをしたので、結局は徹夜になってしまった。
が、この連載はテーマも含めて大好きなので、気分はいい。
ノーマ・ジーン・ベーカー=マリリン・モンローとグロリア・ステイネムとについての、原稿だ。

昨夜は料理をする気力もなく、野菜室のアスパラと、
スタッフに教えてにもらったラッキョウをてんぷらにしたら美味、
を気にしつつも、日本蕎麦を遅い夕食に。
蕎麦は大好物で、毎日食べても飽きない。
最近見つけた店だが、鴨の塩焼きも、筍の天ぷらも、
なぜか蕎麦屋であるのに、ポテトサラダも美味しかった。
何より蕎麦が美味。つゆも、さっぱりしているのに濃くがある。

外で美味しいものに出会うと、レストランのスタッフを連れてきて、勉強をと思う。
まだ若い、まだまだ勉強が必要だ。素材が有機であることに甘えてはいけない、とも思う。
今日、日曜日は日本ペンクラブと国際子ども図書館共催の、
子どもの本についての講演会。ジーパンにしっかりレッグウォーマーをして出かけた。
上野から根津あたり、覗いてみたい店もあるのだが、直行直帰。
子どもと子どもの本と原発と平和と憲法というテーマで話をした。
わたしは子どもの本屋でもあるのだけれど、本だけの話で完結するわけにはいかない。

沖縄の取材がはじまる。

2013年4月17日水曜日

4月17日

淡路島を震源とする地震があった朝。
大阪に向かっていた。余震もあるかもしれない、
交通に乱れが生じる可能性もある、と
予定より早い時刻に東京を発った。
その頃、画家の坪谷令子さんは、18年前の
阪神淡路大地震と比較しながら、次のように思っておられたという。
坪谷さんのメールより。
……今日は大丈夫だったけれど、これが、もっと強い地震で、もし
大飯原発に事故があれば…それは、もはや事故ではありません。
原発を止められなかった私たちは“事件の加害者”になってしまうのです。
私は、“未来の人たち”に対する加害者になりたくないです。
さらに、思います――
経産省前のテントを「不法占拠」などと、よく言ってくれますよね。
政権が、この国の今と将来を含めた時空をナイガシロにするなら、
それこそがトンデモナイ「不法占拠」ではありませんか!
正当な怒りはエネルギーになりますね。

そうです。
正当な憤りを持続し続けて、歩んでいきましょう。
正確な記憶ではありませんが、マハトマ・ガンジーの言葉にならうなら、
善きことは、かたつむりのごとく動く……。
ある時はかたつむりの速度で、そしてある時は疾走するピューマのごとく。
内なる憤りの暴れ馬を諦めで眠らせることなく!

20日、土曜日の「朝の教室」
講師は非電化工房の藤村靖之さん。
工学博士で、NPO法人那須希望の砦の理事長。
1984年息子さんがアレルギーぜんそくになったのを機に、空気清浄器を発明。
電化製品の非効率性を説き、電力を使用しない家庭用機器を発明・設計。
東日本大震災後は、行政に頼ることなく暮らす市民の力で放射線被害から身を守るため、
地域住民とともに安全で安心な暮らしができることを目的として、
2011年5月から講習会や放射線計測、
除染研究などを実施する市民団体「那須を希望の砦にしようプロジェクト」に参画。
2012年に「那須希望の砦」としてNPO法人化し、理事長に就任したかただ。
足尾銅山事件の田中正造さんが亡くなって、今年で100年。
同じ栃木からの「声」に耳を傾けたい。

2013年4月16日火曜日

4月16日

13日土曜日。大阪堺での講演。
地震のニュースに、予定より早めに大阪に向かったが、
大飯原発は?  と気が気ではなかった。
これからもずっと、わたしたちは「それ」を恐れ、
「それ」に振り回され続けるのだろうか。
「それ」とは自然災害そのものというより、
地震列島に作り続けた、原発そのもののことだ。

汚染水の漏れは、その後はどうなった? 
ビニールシートでつくっていた? 
信じられない。
これが「原発」の実態の、ほんの一部であるのだ。
次から次にでてくる稚拙としか言いようのない事故への、対応の仕方。
事故前の対応も、この連続であったに違いない。

2013年4月12日金曜日

4月12日

今夕、経産省前のテントひろばでは大きな抗議集会が。
残念ながら、さきに入っている仕事のために
わたしは参加できなかったが、以下のメッセージを。

落合恵子です。
本日は参加できず、とても残念です。
「国有地なので、立ち入り禁止」というならば、
福島の、それぞれの家族が暮らす、それぞれの家族の歴史を刻んだ
かけがえのない「私有地」に、そうして福島の田畑に、森に山に海に、
ことわりもなく、放射能を「立ち入らせた」のは、誰なのか。
「立ち入り禁止」のかけがえのない個々の暮らしに、今なお収束しない現実をつきつけ、
放射能をばらまき、汚染水を漏らし、「不法占拠」し続けているのは、一体、誰なのか。
わたしたちは決して忘れない。
本日は仕事の都合でお訪ねできません。
また参加します。
お疲れでしょう。どうかどうか、ご自愛ください。

2013年4月11日木曜日

4月11日

相も変わらずばたばたと走り回ってブログをご無沙汰気味。

脱原発サミットin茨城では、サイエンスライターの田中三彦さん、
脱原発首長会議のリーダーであり東海村村長の村上村長さんとご一緒に。
熱い会だった。

昨日は取材で京都へ。
男性の介護者の集まりに。
妻を介護している60代の男性たちが多かったが、
「罪滅ぼし」とか「恩返し」という言葉がよく会話によく登場した。
みな、よくやられている。
でも、完璧を目指すとバーンアウトしてしまう。
息子さん(といっても定年退職された)と一緒に
参加してくださった99歳の女性が書かれた文言
……また戦争の時代になってしまいそう……
が心に残った。
取材のあと、嵯峨野の常寂光寺で、「女の碑」を。
石碑に刻まれた平和を願う女の言葉が前掲の99歳の女性の言葉と重なる。

いま気がかりでならないのは、漏れている汚染水のこと。
これが「安全な原発」の実態であるのだ。
事故から二年余り、これが原発の「安全」の現実である。
それでも安全性を確認して、また動かすというのか。

今週も週末は旅が続く。

2013年4月7日日曜日

4月6日


 
関東地方は荒れ模様の土曜日、
なんだか不穏な天気である。

近くに桜の樹があるはずはないのだが、
今朝の窓に数枚、花びらがはりついていた。

風に乗って、花びらもちょっと遠出をしたのかもしれない。

6月からスタートする、日曜を除いて連日の
原稿一週間分を書き上げて、外の仕事へ。
明日は大荒の空模様らしいが、東京を離れる。

万が一電車が走らなかったら、とかシミュレーション。
電車不通の場合のルートも確保し、ほっとする。
約束をたがえるわけにはいかないから。

出がけに鶴 彬(つる あきら)の川柳を思い出す。

……蟻食ひを噛み殺したまま死んだ蟻
……暁をいだいて闇にゐる蕾

1909年石川県の現かほく市生まれ。
1937年、29歳の折ににその作品が反戦・反軍的であるとされて
二度目の検挙(その前にも治安維持法違反で収監)。

1938年、留置されたまま死去。死因についてはいろいろと言われている。

……枯れ芝よ! 団結をして春を待つ

2013年4月5日金曜日

4月5日

今日は朝から、月に1度のクレヨンハウスのミーティング。
朝9時スタート。
今朝は8時30分に出社。
まずはアウトテリアのプランターやハンギングバスケットに咲き乱れる花を摘む。
そうしてわが家から持参した古いケトルに挿して、アキニレの木陰に飾る。

ケトルはその昔、ホウロウ製の真紅で、
ずいぶん長い間、コーヒーを淹れるときの大事なおともだった。
古くなっても味のある、丸い形がキュートなケトルだった。
が、限界を迎えたが、いろいろな思いがあって処分できないでいた。
そして、夜明け前、原稿を書いていて、
そうだ、クレヨンハウスのアウトテリアで花瓶替りに使おう、と思いついた。
ところどころに焦げがついたまま、ひびも入ったケトルだが、
真紅の地色は残っている。
そこで、白いノースポール、紫の濃淡のビオラやパンジー、薄紫の花をつけたローズマリーなどをごっそり挿して、アキニレの下に飾った。

花や緑の香りに包まれての、もっとも楽しい作業が終わる頃、スタッフの多くが出社。
14時まで、会議や打ち合わせが続き、
おなか空いたねえと言いながら、ミズ・クレヨンハウスの取材に立ち合う。
反原発・脱原発の書籍を集めている理由などについても説明。

ミズ・クレヨンハウスに限らず、クレヨンハウスの主なるコンセプトは、OTHER VOICES.
周辺の声、主流ではない価値観、別の声、ともいえる。
男性優位社会における「女・子どもの声」、
生産性の効率のみを重視する社会における「高齢者の声」、
すでに障がいと呼ばれるものがある人の声、
などに光を当てる作業をささやかながらお手伝いするのが、この空間である。
原発事故の被災者の声もまた、OTHER VOICESである。

終了後、蕎麦屋さんへ。
せいろをお替りしてスタッフに呆れられる。小食なのだ、みんな。
みんなに言わせると、わたしが大食、ということになるのだが。
蕎麦屋さんから帰って、原稿を一本。
それから8月3・4・5日に行う「夏の学校」の打ち合わせに参加。
1年に1回の、クレヨンハウス最大のイベントなので、みんな真剣な表情。
真剣な表情で議論する若いひとたちの表情を見ているのは、
樹や花を見るのと同じくらい好きだ。

最近、読んだ反原発の視点からの本で、とても印象深かったものの一冊に
「朝の教室」の講師も引き受けてくださった木野龍逸さんの
『検証 福島原発事故 記者会見2』(岩波書店)がある。
1・「収束」宣言 2・漏れ続ける汚染水、3・被曝隠し、4・情報非公開
……から9・いま何をすべきか、まで。
……記者会見を、そして、現地での取材を重ねた著者が、
欺瞞に満ちた「収束」の虚妄を、明らかにする……(表紙袖の一文より)

特にあとがきの以下の文章は心に響く。元気づけられる。
……社会を劇的に変える方法はない。私たちが着実に歩を進めることでしか、
社会の変化は定着しない。時に無力に思えるかもしれないが、意見を発信し続け、
動き続けることを止めてはならない。日々のニュース報道や、当事者らの話に
耳を傾むけ、自ら感じ取った思いを胸に、彼ら・彼女らの傍らに立ち、関心を持ち続けることが、求められている(後略)……。
時に無力感・非力感に打ちのめされそうになるとき、
1966年生まれの、若いこの著者の言葉をわたしは素手で握りしめる。

2013年4月4日木曜日

4月4日

仕事をしなくてはならないなあ、
と焦りながら輪郭が溶けたような、
曖昧でぼーっとした時間を漂うことがある。
その中で歳時記を、これまたぼーっと見ていたら、
「花疲れ」ということばに出会った。
お花見の人出に酔ったのか、
気怠い疲労が残った状態をそう呼ぶようだ。
ひとに「花疲れ」があるよしたら、花自身にも疲れはないだろうか。
花がどこまでそれを意識しているかどうかは別だが、
「咲く」という行為は、
とてつもないエネルギーを要するものだと思う。
花には花の、鳥には鳥の、虫には虫の疲れがあるのかもしれない。

絵本作家で、無類の鳥好き、鳥の巣研究家でもある鈴木まもるさんの新刊に
『おじいさんとヤマガラ』(小学館)がある。
主人公は、虫や鳥が大好きなおじいさん。
おじいさんはいつも冬のあいだに、ヤマガラのために巣箱をとりつける。
2011年。福島第一原発事故があったあの年も、家の周りに巣箱をとりつけた。
虫が食べる葉にも放射性物質がついたかもしれない。
その葉を食べた虫を親鳥はヒナに食べさせるかもしれない。
ヒナは大丈夫だろうか……。
サブタイトルは『3月11日のあとで』。
それぞれがそれぞれの方法で、
原発事故と「その後の社会」と向かい合っている。
悲しみと憤りと、祈りをこめて。

2013年4月3日水曜日

4月3日

花冷えという言葉が、ぴったりくるような日々が続いている。
またもやレッグウォーマ登場、である。
足首を温めるため、この冬は愛用していたが、
もう不要かと思いっていたが。
今後のデモのためにも、足はしっかり温めておこう。

母を介護していた頃のこと、寝不足と疲れがたまりにたまって、
けれど違った意味での張りと充実感もあった頃、
スカーフとレッグウォーマーを取り違えて、
首に巻いてステージにあがったことがあった。
「スカーフ」が、なんだかいつもより短く思え、
何度も首に回し直している間に、気づいたのだ。
これはスカーフではなく、レッグウォーマーだと。

もともと粗忽なうえに、寝ぼけたまま家を飛び出したのかもしれない。
そうだった、郷里の栃木での講演会だった。
どんなに疲れても、家に帰れば、母がいる。
認知症であっても、ほんのりとした笑いを浮かべてくれる母がいる……。
それだけで、充実していた。
眠かったけれど、医療のパターナリズムにはいつも腹を立てていたけれど。

どこにだって、「ムラ」はあるのだよね。
患者やその家族が、従順なPATIENT(まさに、我慢強いという意味もあるが)な時は
いいが、
少しでも詳しい内容を知りたがったり、さらに少しでも疑問を鋏むと……。
「ムラ」の住人たちは、牙をむく。大学病院は特にそうだった。
似ているな、この「ムラ」は。

原発に関して、わたしたちはPATIENTではいられない。
改憲に関しても同様だ。
母を介護していた日々、わたしは「うるさい家族になる」と決めた。
そうしなければ、母のいのちが危ないと思えた時も正直、あった。
そしていま、わたしは改めて自分に誓う。
わたしは「うるさい市民」になる、と。
いのちと人権の問題なのだから。

仕事がたまっている。
今夜は徹夜になりそうだ。

2013年4月1日月曜日

4月1日

先週末、福島に行ってきた。今年に入って4度目の福島。
大勢の方々が集まって、拙い話を聞いてくださった。
ほかのところであるなら、もっとスムーズに話ができるのに、
福島で暮らしておられるこの方々に、
一体わたしは何を伝えることができるのだろう。
何度となく言葉に詰まり、何度なくこみあげるものがあった。
がんばってなどとは言えない。
充分すぎるほど、あの日から、そうしておられるのだから。
ご一緒に、とも言えない。
背負うものがこんなにも違うのだから。
共にという言葉も、不遜であり、おこがましい。
それでも、共に居させてください、と心からお願いする。

詩人・堀場清子さんが記されているように、
「一億総ざんげ」の一員に加わることは、わたしは拒否する。
それで終わりにしたくはないし、それで終わらない問題を福島に暮らす人々は山ほど抱えておられるのだから。

3月12日に亡くなった佐藤祐禎さんのお話もさせていただいた。
今回持参した資料のひとつに、「はんげんぱつ新聞」1月号に、
「朝の教室」でも講師をしていただいた石丸小四郎さんのエッセイがあった。
旧聞に属するが、石丸さんはブラジルで発行されている日系ブラジル人向けの新聞に
掲載されたという「求人広告」について記しておられる。
「廃棄物の除去・20キロ圏内/日当3万円」、
同じく「廃棄物の除去・安全な場所/日当1万円~1万2千円・日曜休み・住宅と3食付」
という雇用条件が記されていたという。
石丸さんに情報を提供をしてくれたひとは、次のようにおっしゃっていたという。
「20キロ圏内というのは原発そのもののことではないか。将来の補償はどうなんですかね」と。

被曝労働を多重な下請けの構造の中で、作業員に押し付けてきた電力会社は、
さらなる犠牲を生み出すのか、と石丸さんは憤りを記される。
被曝労働については、樋口健二さんのご著書にも詳しいが、
支配・被支配の構造、差別構造をそのままに、
アベノミクスは空疎この上ない未来像を今日を描き、強大な支持率を誇っている。