2013年3月29日金曜日

3月29日


都内を歩いていると、風に乗って、どこからか桜の花びらが。
この季節特有の少し強い湿った風に舞っている花びらや
道路の上をくるくると回転していく花びらを見て、
近くに桜の樹があることを知るのも、この季節のことだ。

午前中は原稿書き。午後からは幾つかのインタビューや打ち合わせに終始した一日だった。

あと一か月弱で、沖縄「主権回復の日」と呼ぶひともいるけれど、
現実は、主権回復どころか、日米地位協定によって改めて沖縄が米国の支配下に登録された日でもある。

沖縄の人びとと、沖縄の地が。

4月28日前後にわたしも沖縄を取材で訪れる予定だが、
こんなにも多くの沖縄の人びとの民意を踏みにじったまま、
普天間基地へのオスプレイ配備、そして辺野古埋め立て要請……。
どこに「誠意を尽くした話し合い」があるのか。
沖縄のいまと福島のいまが重なる。

2013年3月26日火曜日

3月26日

昨日月曜日は、淡い花冷えの一日。
おかげで満開に近い東京の桜もまだ少しもちそうな気配が。
しかし、花自身にとってはどちらがいいのだろう。
一日でも長く枝にいるのと、ぱっと咲いて、ぱっと散るのと。

今日も花曇り風な一日だったが、朝刊を開いて、Oh!
問題となりながら、長年放置されてきた「一票の格差」。
「違憲」としながらも、それ以上は足踏み状態、踏み込めなかったじれったい司法であったが、広島高裁は、小選挙区の区割りを「違憲」とし、広島1区、2区について「無効」とする判決を言い渡した。
去年の衆院選挙に関して、司法の「違憲」判断は相次いだが、「無効」ははじめてというか、およそ半世紀となる「一票の格差」訴訟で、「無効」の判決は一度もなかった!のだ。
それ自体、三権分立に対して「違憲」とも言えるのだが。

昨年の総選挙について5件の違憲判決は出るには出たが、「無効」は回避されたままだった。
公益に反する場合は棄却できる「事情判決の法理」(難しい呼称だ)と呼ばれるものがあり、これが国会に「違憲と言われても、無効にはなるまい、まっいっか」という緩さと不遜意識を培ってきたのだろう。

「違憲国会に、改憲をされてなるものか」と、わたしはいろいろなところで書いてきたのだが。
公平な選挙は民主主義の基本だ、と続けて書いて、虚しさを覚えるのも事実だ。
違憲状態であることを充分認識しながら、それを是正しようとしない候補者たちに1票を投じたのも、有権者ひとりひとりだと考える、と、なんだかなあ。
それでも判決は評価したい。
「0増5減」の法律はできたが区割りは未完だし、
「0増5減」方式は違憲状態のおおもとと言われている「一人別枠方式」を温存させたものでもあると言われている。
とすると、抜本的改革にはまだまだ遠い。

2013年3月25日月曜日

3月25日

先週の金曜日、22日は夕刻から経産省テント広場の抗議集会に参加。
今までなかった「国有地につき、立ち入り禁止」の看板が。

福島の、それぞれの「私有地」に放射能という、
この上なく危険なものを許可なく、まき散らしておいて、
よくも、と腹が立つ。
私有地にこそ、まずは「放射能、立ち入り禁止」であるのだ。
3月11日の東京新聞にはおよそ800名の福島のかたがたが
原発事故の「関連死」と呼ばれる最期を迎えた
という記事が掲載されていたが。
福島のかたに聞くと、「もっと多いかもしれない、
1000名になるかも」とおっしゃる。
何を{関連死}(なんと悲しい、無念な言葉か)の基準とするかは微妙だが、
それほど多くのかたがたが、
その寸前の日々を送っておられるか。
これからも、もっと増えていく可能性がある。

使用済み核燃料プールの30時間にわたる停電。
それひとつとっても、国も東電も「想定外」と言い放った事故直後と精神構造は
まったく変わっていないと解釈するしかない。
仮設の配電盤で「間に合う」としてきた、いい加減さは、
たぶん他にも多々ある。
「事故」を「事象」と言い換えることもまた、
事故前と同じまま。

今日は花冷えの天気で、東京の桜はまだもっている。
花に嵐のたとえがあったとしても、
反原発を目指す人々の心まで
「散らす」ことは決してできないはずだ。

2013年3月22日金曜日

3月22日

イラク戦争から10年。メディアは特集を組んでいる。
あの頃、わたしは母の介護をしていた。
朝一番のバイタル(血圧や脈)は通常通り。ほっとしたのも束の間、
1時間後に血圧が突然上がったり下がったり、
頻脈が起きたり……。
「ジェットコースター」の日々だった。
当時、上院議員だった現大統領バラク・オバマは戦争に反対だった記憶があるが、
いま彼がしていることを見ると(TPPにしろ何にしろ)首を傾げざるを得ない。
大国・米国の威信のためなら、なんでもやる、ということか。

ノーベル平和賞は何のためのものだったのだろう。
それでも、共和党か民主党か、どちらかと言われれば、民主党を選ぶしかないのだが。
イラク戦争に反対する集会。母の体調がいつどのように変化するかわからず、
スピーチは「予定」とチラシに印刷していただいた。
当時、新聞に連載していた『母に歌う子守唄』(朝日新聞 刊)でも、
自らの中のジレンマを書いた記憶がある。
母を介護し、ひとつのいのちをなんとかサポートしようとすることと、
海の向こうの大勢の人々のいのちに対してなんとかしようとすること(たとえできることは微小であっても)の間で、
わたしは常時、二つに引き裂かれている、と。
辛い日々だった。
ジークムント・バウマンの『リキッド・モダニテイ……液状化する社会』(大月書店)を読んだのは、
ちょうどその頃だったろうか。
本書に関しては、『自分を抱きしめてあげたい日に』(集英社新書)で詳しく触れているが、
バウマンは次のように言っている。
……社会は危険と矛盾を生産しつづける一方、それらへの
対処は個人に押しつける……(森田典生・訳)

思い出していただきたい。
当時の政権が使った「自己責任」という、あの言葉を。
イラク人質事件に関して、どれほどこの言葉を流布し、
多くも、この言葉を受け入れた。
この「自己責任論」に容易にのってしまう社会は危険だ、と
もろもろのコラムで書いた記憶もある。
しかし、「自己責任」という大きな声に、異議などは消されていった。
その後も、「自己責任論」の危険性に関しては、
いろいろなところで書いている。
なぜなら「自己責任」という概念と言葉がさらに拡大解釈されれば、
そして深まれば、バウマンが指摘したように、
社会(国とも代言できる)はこの上ない危険と矛盾を生産しつづけながら、
すべての対処(責任)を個人に押しつけるからだ。
この構図は、原発事故と相似形ではないか。
福祉の切り捨てもまた、この「自己責任論」の上に成立するものだ。
今日は収録と打ち合わせが一日中。

2013年3月21日木曜日

3月21日

まずは大事なお報らせから。
先月に仕事をご一緒したNHKのディレクターさんから
以下のメールが入りました。

……3月22日(金)深夜25:00~ 『Eテレ・アーカイブス』〔NHK教育〕
未来潮流 『科学を人間の手に~高木仁三郎・闘病からのメッセ-ジ~』(99年放送 74分)
原子力資料情報室の創始者である故・高木仁三郎さんの遺言となった番組です。
原子力発電を手がける企業に就職してから、大学の研究者を経て脱原発運動に踏み出すまでの歩みを、
若い世代に託した思いとともに伝えるものです。
(番組は、後に 岩波新書『市民科学者として生きる』 として書籍化されました。)
現在から振り返ると、私自身を含む社会の側の認識の甘さに愕然とします。
よろしければ、ご覧ください。

22日深夜1時。わたしもテレビの前にいます。

ところで、福島第一原発、使用済み核燃料プールなどの冷却が同時多発的に止まった事故。
20日、内部の壁に焦げた跡が見つかって、近くにはネズミらしい小動物がいた
というのが、東電の発表。
「事故」でなく、「事象」だって。

先週末にお通夜と告別式があった福島双葉の佐藤祐禎さんの短歌を思う。

・一基にて日に数億を稼ぐといふ原子炉の寿命知る人のなし
・質問の答へは確信触れぬまま原発健全性の説明会閉づ
・反原発のわが歌に心寄せくるは大方力なき地区の人々
歌集『青白き光』 いりの舎・刊 いりの舎・☎03-6413-8426
ミズ・クレヨンハウスにも置いてあります)

それにしても、未だ収束など何一つみていない、あの苛酷事故から丸2年。
事故発生直後に設置した「仮設」の配電盤のままできた東電である。
あれほどの事故を起こしても、まだこの程度の認識なのか。
15万余の人々が家に帰れず、一方福島で暮らしている人々がいることを
東電は、そして政府はどう考えているのか。
こうして伏せられ、蓋をされてきたことが、山ほどあるのだろう。
この停電だって、事故前であったら、発表さえされなかったかもしれない。

もうひとつお報せが。
☆仮処分に対する「記者会見」と「集会」のお知らせ
経産省テントひろばを開設して1年半、福島をはじめ脱原発を訴える全国のさら
に世界の人々が訪れる文字通りの脱原発ひろばに危機が来ました。
債権者として「国」がテントひろばに「占有移転禁止仮処分」を訴え、
東京地裁がこれを認め、3月14日にテントひろばに仮処分を通告。
次に土地の明け渡し請求訴訟を準備していると思われます。
そこで、私たちは顧問弁護士の出席をお願いして、次の様に緊急の記者会見と集会を
開催します。
メディア関係の皆さまには両方への取材および報道をお願いしたく、全国のテントの
支援者の皆さまには集会への参加をお願いしたく、ご案内申し上げます。

経産省前テントひろば
○ 記者会見 
日時 2013年3月21日(木)13時~14時
場所 経産省テントひろば前(雨天等の場合はテント内)
〒100-0013 東京都千代田区霞が関1-3-1
出席者 淵上太郎、正清太一、原発いらない福島の女たちから、弁護士、他
問合せ 経産省前テントひろば(070-6473-1947)

○ 抗議集会
日時 2013年3月22日(金)17時~18時半
場所 経産省テントひろば前
出席者 淵上太郎、正清太一、原発いらない福島の女たちから、弁護士、他著名
問合せ 経産省前テントひろば(070-6473-1947)

21日は時間調整ができないのですが、明日22日はなんとか調整して
参加したいと思います。

2013年3月19日火曜日

3月19日

ただいまー、である。
先週金曜15日が広島、16日が細かい雪が降る札幌、
17日、8日が大阪で講演と東京を離れる日が続いていた。
開花宣言が聞これる地域もあれば、道路の両側に雪の山を
視ながら風花散る地域もあって、強風にあおられた揺れる飛行機の中で、
列島の縦長の形を再確認させられた週末から週のはじめ。

少々疲れ気味だったせいか、大阪豊中での講演会では、
突如冷や汗がしたたり落ち、眩暈発生。
OH,どうする? ひやっとしたが、会場との質疑応答に5分ほど
進行を変えて(この間だけ座った)、無事終了。成功。
「あなた、自分を幾つだと思っているの?」。
いつも心配をかけている友人たちからの叱責を思い出す瞬間がある。
案じてくれる友人たちに感謝しながらも、質問には
「68だよ!」
と、型通りに答えることにしている。
あと何年、元気で走れるかはわからないが、
いま走らずして、いつ走る! 落合である。

大阪ではクレヨンハウスの大阪店にも立ち寄ってきた。
隣の男性もの用のファッション店で、リネンの気持ちよ
さそうなシャツなどを購入。服を購入する時間がないまま、
このところ「あなた、同じような恰好ばかりしているわよ」
(よき友人は往々にして口が悪い)のこれまた注意を思い出しながら。

今朝の東京新聞。
一面は「南海トラフ被害220兆円」の大きな見出しが。
南海トラフで東日本大震災と同じM9級の
巨大地震が発生すると、最悪950万人が
避難が必要となり、もろもろの損害は
220兆円になるという想定を、内閣府
中央防災会議がまとめたものだ。
この筋には、東日本大震災の福島第一原発
での、数字にできない精神的被害も、
まだ明らかではな建物被害や経済活動の
被害も加算されてはいない。
この記事の横には、「原発事故盛り込ます」
という至極まっとうな見出しがついた記事と、
その下には、福島第一原発での停電事故、
燃料給油プールが冷却停止した記事(3時間後に
公表)も掲載されている。
去年も4号機プールで冷却が停止し、
水温が一時43度まであがったことも、わたし
たちは忘れてはならない。
今なお「何があっても不思議ではないこの列島で」
政権は原発を推進し、海外にまで輸出しようと
している。
豊中での集まりには、親子で関西に避難している
女性も参加されていた。
4人のお子さんのうち、高校生のおねえちゃんだけ
福島の祖父母の家で暮らしている。
「小さいのもいないと淋しい、という両親の言葉を
聞くたびに、わたしはわがままなのでは? 帰ら
なくてはいけないのでは}と思います、と涙ぐんで
おられた。彼女は、9日の反原発集会でも
素晴らしいスピーチをされた。

今日は朝から快晴。
たまった洗濯をしながら(乾燥機を使わないで
すむのがうれしい)、これまた、たまった原稿を書いて、
夕方からは外での仕事だ。
いい天気だ。

2013年3月14日木曜日

3月14日

春の嵐、というと、なんだか文学的でも
あるけれど、昨日もまた砂嵐が。
10日もデモに出る直前から砂嵐になったが。

福島双葉出身の歌人、佐藤祐禎さんが
12日に亡くなられたことは、一昨日のブログでお報せした。
土曜日がご葬儀だそうだ。

ゲームクリエーターの飯野賢治さんも亡くなった。
40代。若すぎる、本当に若すぎる死である。
わたしはゲームをしないので知らなかったが、天才的
クリエーターだと言われていたという彼である。
その飯野さんが、2011年福島第一原発事故のあと、
ご自分のブログで、反原発をおっしゃっていることを
編集部のスタッフから聞いて、クレヨンハウスの
育児雑誌『月刊クーヨン』でインタビューをさせて
いただいたのは、2011年7月号の『クーヨン』だった。

穏やかなかただった、と取材にいったスタッフも言っていた。
そのインタビュー記事を改めて、ご紹介したい。

……もともと原発の問題には関心があって、いくつかの活動に名を
連ねてはいたんですが、たいした運動をしているわけではありませんでした。
仕事のこともあって、公然と「原発反対」と言ってこなかったところもあったん
ですが、このタイミングで言わなければ ずっと言わないだろう、それも気持ち悪い
なと思ったんです。
自分の態度を公にして、その姿を子どもにも見てほしい、そして考えてほしいと思っ
たんです。

原発の話って、経済効率や安全性はどうか、だから反対か賛成か という話になりが
ちだけれど、
そういう論理的なことで判断していくと、失敗してしまうと思うんです。
ぼくは、先の世代を考えることが大事だと思う。
原発は廃棄物の処理に10万年もかかる。そんな後回しはないですよね。
世の中「自分がOKなら OK」と言ってしまうと、環境問題でも何でもどうでもよく
なってしまう。
たとえば、ふだん「親や友だちには迷惑をかけたくない」と 思いますよね。
そんなふうに気にかける範囲を広くし、時間軸まで 広げていくやさしさが
ひととしては大事で、原発にはその視点が欠けていると思います。

子どもに話すときも、論理的な説明はあまり届かないんです。
それよりも、こっちもまだ悩んでいる、ことばを選んでいる、そういう気配を、
子どもって敏感に感じ取るんですよね。
逆にそういう態度を見せられないと、親ではなくなってしまう気がしたんです。
テレビや本が言うことと、変わらなくなってしまいますから。
結局は 息子が自分なりに考えてどう思うかでいいんですが、話してみたら
意外と原発にポジティブで驚いたんです。いまの子は普通に生きているとそうなっ
ちゃうんだ、と。

子どもはこういうときの親の行動を見て、ちいさなひとこともよく聞いています。
いま親がどう動くか、そのコピーで大人になると思っていい。
そう考えると、いまほど教育の機会はないと思いますよ。
ぼくが先の世代を考えれば、息子もその先の世代を考えてくれる。
伝えなければその視点をもたない。だから話をしようと、
うちの親父が聞いたら笑っちゃうような当たり前のことを言っているだけなんです。

話せる状況はふだんからつくっておかなきゃ。
わがやは年に一度、上の息子が小学2年生くらいから父子旅行をしているんですよ。

下の子にも、そのうち話をしていかなきゃいけないですね……。

2011年の春にこのインタビューをお願いしたとき、
その春に中学に入学した「上の息子」さんと、
まだ小さかったもうひとりの息子さんと、
飯野さんは写真におさまってくださった。

2013年3月12日火曜日

3月12日

3日間に渡って続いた反原発の集会&デモが
昨夜の品川「きゅりあん」の集会で終わった。
次の集会は6月と聞いているが、わたしたちの闘いの日々は続く。
確かに、けれど焦らずに、反原発の日々を歩んでいこう。

以下、昨夜の閉会の辞を。

このところ、わたしの内側で響いている言葉をまず紹介します。
ジークムント・バウマンの『リキッド・モダニティ液状化する社会』(大月書店)
に記されたフレーズです。
「社会は危険と矛盾を生産しつづける一方、
それらへの対処は個人に押し付ける……」

そんな社会に、わたしたちは暮らし続けています。
先のフレーズの「社会」を「国」に言いかえることも可能です。
原発事故に伴い避難やストレスによって亡くなった、
原発関連死と、悲しくも無念な言葉で呼ばれる死も増えています。
その上、昨年の9月に続いて、2月13日にはさらに二人の子どもの甲状腺がんと、
ほかに7人のお子さんも疑わしい状況にあると判明したという発表がありました。

ところで、丸2年がたって、一体、何が変わったでしょうか。

廃炉は決まったのでしょうか。
原発輸出は禁止されたのでしょうか。
福島で暮らす子どもたちは安心して外で遊べるようになったでしょうか。
いいえ。
2月にあった集まりに来られた女性たちは、
集会のあったすぐ外の公園でも線量が高くて
子どもを遊ばせることはできないと嘆いていました。
離れ離れに暮らす家族がもう一度一緒に暮らせるようになるのはいつのことでしょう。
叶うとしたら、それは、いつ、どこで叶うのでしょうか。

1月末の南相馬、小高(おだか)区。雪はいったんやんで、
青空が見えるまだ早い土曜日の午後。
かつては150軒もあったと言われる商店街で、店が開いていたのは、一軒、理容室だけでした。

長年原発を推進してきた自民党が、政権第一党です。
円安株高、経済優先で浮かれている経済界がいます。
「安全が確認された原発を再稼働させる」とこの政権は言明しました。
米軍の普天間基地の辺野古への早期移転を決めると言明している政府です。
防衛費は増え、福祉は削られ、オスプレイは日本中を飛べるようにしているのです。
憲法改悪を国民的議論に高めようと発議しているのが、この政権第一党です。

3・11この日だけを、時計の振り子を戻す「記念行事の日」にしてはならないのだ、と私は考えます。
この国の歴史は、いつだって無この市民の悲しみと喪失と憤りを置き去りにしたまま、
見せかけの、繁栄を築いてきたのです。
福島第一原発事故に関して、この「置き去り」を決して適用させてはならないと思います。
9日の集会デモ、昨日10日の首都圏反原発連合の集会デモ、そして今夜のこの会。
この3日間、私はある意味ではとても居心地よく過ごしています。
何かに反対を唱えるものが、同じ考えや志を抱き集まる時空はとても気持ちがいいものですから。

しかし、それだけでは自民党を第一党にし続けてしまうのです。
イラク戦争から10年。自己責任という言葉がこの国を席巻したことを思い出しましょう。
恐ろしい言葉です。
本来責任をとるべきものが逃げて、責任があるのはおまえだと市民に転嫁するやりかたです。
原発に関しては、そして原発事故に関し、市民に責任があったとしたら、
それはより知ろうとしなかった責任、無関心という責任です。
しかし、その責任ゆえに、私たちは本当に責任あるもの、
国策として原発をすすめてきたものたちへの責任を追及する手を緩めてはならないはずです。
第二次世界戦争の敗戦がそうであったように、
「一億総ざんげ」で、終わらせてはならないはずです。

お報せがあります。
9日の「さようなら原発」の集会&デモで逮捕がありました。
そのおひとりがすぐに釈放とお聞きして安堵していましたが、もうおひとりは逮捕されたままであることを、
そのお友人からクレヨンハウスにご連絡をいただき、今朝知りました。
心臓疾患やインシュリンの治療を受けているかたで、とても心配でしたが、
さきほど釈放され、その足でこの会場においでいただき、先ほど、お目にかかることができました。

デモはわたしたちの権利であるのですが、取り締まりは今後より一層厳しくなってくると思います。
注意をしましょう。

今日3月11日を、時計の振り子を戻す「記念の行事」にしないことを自分と約束して、
閉会の辞とさせていただきます。

 昨日、わたしは逮捕されたTさんのことで、あちこちに電話をし、
「こちら特報部」の田原 牧さんからも貴重なアドバイスをいただいた。
その間にもう一本、別に気がかかりなことがあって、電話をかけていた。

ブログはむろんのこと、コラムなどでもご紹介してきた双葉郡大熊町の佐藤祐禎さん。
農業をされながら、長年、短歌を詠まれ続けた佐藤さんを知ったのは、
いりの舎から刊行された歌集『青白き光』を通してだった。
お手紙をいただいたこともあったが、昨年の秋に倒れられ、
意識不明のままであることは、前掲のいりの舎のかたからお聞きしていた。
丸二年を迎えて、どうされているか、とても気になって昨日電話をした。
そうして、12日夕、亡くなられというご連絡をいただいた。
お目にかかりたかった。
本当に悔しい。

・反原発のわが歌に心寄せ来るは大方力なき地区の人々
『青白き光』より)

2013年3月11日月曜日

3月11日

昨10日は、クレヨンハウス「朝の教室」講師は弁護士の宇都宮健児さん。
反原発についてのお話はもとより、
わたしには都知事選での体験談、特に敗因の分析が興味深かかったです。
選挙戦でむしろ体調がよくなった、という淡々と明るい姿勢が、とても心に響きます。
「一喜一憂してもしかたがない。続けることです」
多重債務などに取り組んでこられた、第一人者の言葉は、そのままあらゆる活動につながります。

「朝の教室」に参加されたかたがたからも「これから日比谷野音です」。
わたしもお昼を早めに食べて、首都圏反原発連合主催の、集会とデモへ。
反原連の、ミサオ・レッドウルフさんをはじめとして、
とてもデリケートな気配りをされている姿が印象的でした。
福島からの女性のお話も、ほかのかたがたのスピーチも。
デモは衆議院会館と参議院会館まで。
そこで請願書を政治家に手渡して、砂嵐の中でのデモは散会。
それからわたしは、ほかの仕事へ。
二日間、歩いて、ちょっとふくらはぎがつり気味だけれど、気分はいい。

以下、昨日のメッセージを。
(といっても、これは事前のメモからで、
その場で変更するフレーズがあったはずだけれど、記憶で)

**********************************************************
メッセージ

あの日から、1年と364日(よっか)。
明日11日で、東日本大震災は3年目を迎えます。

まやかしの平和利用という名のもとで、安全神話を流布しつづけ
地域を分断し、人々を苦しめ続けている原発推進を続けてきた政党が
最大政党になりました。

憲法を改悪しようとする改憲勢力が、衆議院で3分の2を超え、
この7月の参議院選挙の結果によっては、
憲法改悪は現実のものになる可能性も否定できません。

「さよなら原発1000万人アクション」も、820万人以上の署名が集まっているのに、
原発推進派を圧勝させてしまいました。

どうしてでしょう?

志も思いも一緒で、ここに来ると安堵しますね。
まだ、だいじょうぶだ、という気になります。けれど一歩、ここを離れて、銀座の街を歩けば、
「反原発? まだやってるの?」という人々も大勢います。

そう、わたしたちが向かい合わなくてならないのは、いま、ここに来ていないひと、
無関心なひとたちです.

もう一度原点に戻り、ひとりが5人に6人に7人に語り掛けていきましょう。

無関心は、原発推進、原発輸出、憲法96条改変、集団的自衛権容認となってしまいます。

改憲勢力が衆議院で3分の2を超えています。
7月の参院選いかんでは憲法改悪が現実になってしまいます。原発は稼働されます。輸出されます。

円安が100円に迫る、株高だ、と浮かれているあいだに、
武器輸出三原則の緩和も目前になりました。日本中をオスプレイが飛ぶようになりつつあります。

今朝の東京新聞一面トップによると、福島第一原発の急造タンク群が3年後に破綻する、という記事がありました。
そうであるなら、汚染水がまた海に放出されるかもしれません。

子どもたちは、どうなるのでしょう? この社会の未来はどうなるのでしょうか?

今日ここにおられる、ひとりひとりとは繋がっている自信があります。
しかし、それだけでいいのでしょうか? 
ここに、関心のない人たちを引っ張り出さないと。

息子さんや娘さん、お孫さんにも働きかけましょう。

地震が続いています。
また原発に何かあれば、放射能は、脱原発に無関心なひとをも、
関心のあるひとをも平等に襲います。

2年前の3・10日、おだやかだった野山や海や空を、またたくまに放射能が汚染してしまいました。
いまもって、収束していません。いまもって、わが家に帰れないひとがたくさんいます。

子どもたちは、原発のある国を選んで生まれてきたわけではありません。
生まれてきたら、原発が54基もあったんです。いちばんの被害を受けるのは子どもたちです。
原発のある国を子どもたちに遺さない。
反原発運動を、きょうからまた、やりなおしましょう。
自分との約束において。

2013年3月10日日曜日

3月10日

昨9日は、久しぶりの「さようなら原発1000万人アクション」
の集会&デモが東京明治公園で。
各地でも、昨日から11日に向けて、さまざまな集会やデモが。
大江健三郎さんは、お嬢さんからプレゼントされたとおっしゃる
素敵なスニーカーをはいて、集会のあと、デモ完走というか、完歩されました。
昨日のデモで、デモデビューをされたかたもいらっしゃいました。
わたしは以下のよなメッセージを。

……東日本大震災という自然災害から、そして福島第一原発の過酷事故から、1年と363日です。
わたしたちは、あの日から誰をも犠牲にしない、今までとは違う暮らし方、拓かれた社会を求め続けてきました。
けれど、長年にわたり原発推進を押し進めてきた政党が今や最大政党です。
そして再稼働と原発輸出が公然と語られるようになりました。
オスプレイが日本中を飛行するようになりました。
参院選のあとには、憲法改悪も控えています。
それでもわたしたちは、力強くけれど淡々と、果敢にけれど確かに、一歩一歩、
毎日を反原発デイにしていきましょう。
毎日が反原発デイということは、原発単体に反対するのは無論のこと、
この社会にある、ありとあらゆる犠牲や差別の構造を切り開いていくことです。

私は強く求めます。廃炉を。
そして一部の利益のために、多くが苦しむ社会そのものを変えることを。
そのために、私たちは決して決して、後ずさりしないことを。
誰かを置き去りにしないことを。私は強く求めます。

私は忘れません。
ひと月ほど前の、南相馬の土曜日、真昼時。
目ぬき通りに人影はなく、雪の中で信号だけが点滅していた風景を。
私は忘れません。
仮設住宅から通い続け、相馬の野馬追いの馬たちが食べる藁を切っていたあのひとを。
「元の暮らしに戻せ、それだけを言いたい」と言ったあのひとを。馬の深い目を。
私は要求します。何度でも繰り返し。
今この時も、被曝しながら原発の中で黙々と作業をし続けるひとの保障を。
私は約束します。
福島を忘れないことを。
毎日を反原発、原発的構造に反対しつづけ、できることにはすべて取り組むことを。
私は強く求めます。他でもない自分自身に。
郡山の駅で、わたしの手を握り、
「忘れないでください、わたしたちがここで暮らしていることを」
とおっしゃったあなたを忘れない、と。
私は注意深く見極めます。
まやかしやその場逃れの言葉たちと、市民のまっとうな声を。
 福島とつながります。福島は私たち自身でもあるのです。
沖縄が私たち自身であるように。

ニヒリズムは押入れの奥に放り込んで、共感をもって今日もご一緒に歩き続けましょう。
私たちが目指すゴールは少し遠のいたかもしれません。
長い長い旅になるかもしれません。
移ろいやすさを否定して、私たちは生きている限り、
原発反対を心の真ん中に据えましょう。
今日この日を改めて、鎮魂とあらがいのための日として、再びの一歩を踏み出しましょう……。

以上

2013年3月8日金曜日

3月8日

大阪での国際女性デイの講演を終えて、遅くに帰京。
新幹線の車中では、いつものように週刊誌の読み比べ。
途中、居眠りも。
出がけに読み返したくなってバッグに入れた山村暮鳥の詩集も、
紙コップ入りのコーヒーを飲みながら。
明日は朝の教室。早めに寝ようと思いながら、種子の通販カタログなど開いている。
素材はたくさんあるのだが、2冊の単行本のまとめが未完のまま。
コラムやエッセイは短い時間の中で書けるのだが、
単行本となると細切れの時間の中ではどうにも落ち着かない……と言い訳してしまう。

9日~11日は、集会&デモが続く。
この3日間だけではなく、毎日をわたしの反原発・反戦・反基地、
反改憲の日々にしようと改めて。
昨年の衆院選、東京高裁が「違憲」と判断。
最大で2・43倍もある格差で選挙をしたのだから、当然だろう。
しかし、原告が求めた選挙無効の訴えは退けられてしまった。
「政治的配慮」というものか。
しかし違憲と判断されても、政治は遅々として一向に動かず。
「違憲国会」のもとで、原発も再稼働し、改憲が推し進められるのか。

2013年3月7日木曜日

3月7日

関東地方、朝からぽかぽか陽気。
すっかり春、である。
仕事の合間の小一時間、新宿の画材屋さんを覗いた。
すぐには使わないのだけれど、
グリーンの濃淡の絵の具を何本か買ってしまった。
ばら売りの絵の具が大好きなのだ。
夜は打ち合わせが幾つか重なる。
金曜日は東京を離れる。
憲法と原発をテーマに話をする予定。

9日土曜日は「さようなら原発1000万人アクション」主催、
「つながろうフクシマ! さようなら原発大集会」の集会&デモが明治公園で。
大江さん、鎌田さん、澤地さん、広瀬さんたちとご一緒。
オープニングコンサートも予定されています。

10日 日曜日朝9:00~は、クレヨンハウス 「朝の教室」。
講師は弁護士の宇津野健児さん。
同日13時からは日比谷公会堂で首都圏反原発連合主催の、集会。
14時から国会への請願デモに出発します。
あの日から2年がたつ11日は、18時30分~品川きゅりあんで、
「さようなら原発」の講演会。

その合間、合間に以前から予定していた講演などが入っていて、
疾走状態だが、福島の人々を考えれば、なんのこれしき! の心境。
デモをすると、身体が軽くなるのもうれしい。
ダイエットには食事制限などせずに、反原発のデモをしよう(笑)

先週、多摩方面で講演をしたとき、会場におられたという70代の女性から、
「9日、送ればせながら、私もデモデビュー、しまーす」
と嬉しいご連絡が。WELCOM!
幸い、温かな日が続きそうだが、無理せず、
けれど確かに歩き続けよう。

2013年3月5日火曜日

3月5日

陽射しは明るく、暖かく、春だなあ、の火曜日。
クレヨンハウスもわが家も次々に
季節の花が咲いてくれている。
あれもこれもそれも、やらなければという日々が続き、
ちょっとバタバタ気味。

春から始まる新連載の原稿はどちらもすでに
担当の編集者さんにお渡し済み。
連載の一、二回目はやはり緊張するし、この緊張感が好きだ。
初夏からは、土・日を除く、日々の連載も始まるので、
この緊張は初夏まで続くのかもしれない。
毎日の連載は、遠い昔、新聞に小説を連載して以来のことだし、
今度はエッセイなので時事問題もしっかりいれたい。
参院選を前にして、それもお引き受けした理由だ。
エッセイの鮮度のようなものを考えると、
前もってドーンと書きだめておくのは、気分的につまらない、といった按配で、
現在、どのように原稿をいれるかはご相談中。
自分の仕事のことはあまり書かないブログにしようと思っていたが、
緊張感がこうして書かせているのかもしれない。

「朝の教室・講師は都知事選でも頑張ってくださった弁護士の宇都宮健児さん」
と書いた日時を10日(日)と訂正します。いつも土曜日なので間違えました。
10日(日)朝9;00からです。すいません。ブログも修正しました。

以下。大事なお報せ。
転載・拡散歓迎のメールが、祝島から回ってきた。
一昨日だったか、新聞報道に接して、ウン?と思った
祝島漁業補償金についての、当事者のかた。島民の会事務局からのメールである。
以下、是非お目通しを。

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皆様

昨日の漁業補償金の受け取りの件についてご心配をおかけしています。
以下、島民の会blogに掲載した文章をお送りいたします。

祝島島民の会 事務局 山戸孝

(下記、転送・転載を歓迎いたします)
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山口県漁協祝島支店の総会の部会における、補償金受け取りの是非の結果について
たいへん残念なお知らせをしなければならなくなりました。

昨日、2月28日に祝島で開催された山口県漁協祝島支店の総会の部会において、
上関原発にかかる漁業補償金についての受け取りの是非が議案として提案され、
投票の結果、正組合員53名中、受けとる意思があるという漁師が31名、
受け取らないという漁師は21名となり、受けとるという漁師が多数という結果になっ
てしまいました。(議長一名は投票せず)

これまで祝島では、祝島漁協時代に何度も上関原発計画に反対し、補償金受け取りの
拒否を貫いてきました。

山口県漁協に合併して祝島支店となった後、山口県漁協は祝島支店の決議や意見に反
して補償金を受け取り、また祝島支店が受け取りを拒否したことによって供託されていた補償金を引き出しました。

そして祝島の漁業者に補償金を受け取るよう何度もはたらきかけてきましたが、
時には多数で、時には僅差で受け取りを拒否し続けてきました。

昨年の2月にも同様の議案が提案され、多数で拒否した後、
今後は祝島支店内では補償金の受け取りについて議案としないという緊急動議が出さ
れ可決されました。

今回、山口県漁協は祝島支店に相談もなく総会の部会の開催と「漁業補償金につい
て」と題した議案の提案を通知してきました。

それに対し祝島支店組合員のうち正組合員32名と准組合員8名が連名で、
祝島支店の昨年の決議を無視した県漁協の行為に抗議し問いただす申し立て書を送付
するなどして書面でやり取りをしましたが、県漁協は開催する姿勢を崩さず、今回の総会の部会の開催となり、冒頭のような結果となってしまいました。
ただこれで祝島の大勢が原発容認に傾いたかと言われれば、決してそうではありません。

福島第一原発の事故を受けて新規の原発計画が宙に浮く中で「もう上関原発計画は進
むことはない」という空気、高齢化が進み漁獲量や魚価の低迷が続く中で経営の厳しい祝島支店の赤字を漁業者自身が直接負担している現状、そういった状況の中で、残念ではありますが、あくまで上関原発計画に対する是非ではなく、苦しい経済状況なかで支店の運営や漁業者の負担をどのようにするのかという側面から今回の件を判断した漁業者がいたという見方もできます。

今回の議案で受け取りに賛成したとみられる漁業者自身がマスコミ等の取材に対し
「どうせ原発は建たないのだから補償金をもらっても問題ない」といった趣旨の発言
をしたという報道もあります。
また今回の決議の結果としてすぐさま祝島の漁業者が補償金を受け取ることになるわ
けではありません。
今後は支店内でこの補償金についての配分委員会が作られ、その中で決められた配分
方法に沿って漁業者個人に補償金が渡されるという流れになります。
ただしこの場合、配分委員会が提示した配分方法が総会の部会の場で3分の2以上の賛
成を得ることができなければ認められず、配分もされません。
今回受け取りに反対した漁業者が今後も反対の姿勢を貫けば、そして適正な手続きの
中で物事が進められていくのであれば、「わしらは海を売っちょらん!」、
「原発の金なんかいらん!」という祝島の漁業者の声はこれからも生き続けていきます。

祝島の島民約450名のなかで53名の漁業者(正組合員)がおり、
そのなかの31名が今回結果的に補償金を受け取る意思を示したということは、残念な
がら事実です。
しかしながら多くの祝島島民、また祝島島民の会としては、30年にわたって上関原発
計画に反対を貫いてきたその意思にいささかも揺らぎはないことを、
今後の具体的な取り組みや行動を通して島外の皆様には改めてお伝えしていきたいと
思います。

祝島島民の会
http://blog.shimabito.net

2013年3月4日月曜日

3月4日

「もう」なのか、「まだ」なのかは、それぞれ違うだろうが、
東日本大震災、そして福島第一原発事故から2年を迎えようとしている。
なにも、本当になにも収束していないのだ。
「わたしたちが、ここで暮らしていることをどうか忘れないでください」
そんなメールやファックスがここ数日より増えている。
忘れはしない。どうして忘れることができるだろうか。
それは、すべてのそれぞれの「わたし」が、あの日から引き受けた、
生きていくうえでの根源のテーマなのだから。
「ここ」から目を逸らしてしまったら、わたしたちはいないことになる。
考えてみよう、何度でも。
わたしたちが暮らしていくうえで、真実、必要なものとは何なのかを。
注意深く見つめてみよう。
原発を、電力の問題に決して矮小化させてはならないという視点で。
ニヒリズムも、「どうせ」も、ため息も、押入れの奥に蹴りいれよう。
いま、わたしたちに必要なのは、
持続であり、確かな意志の力であり、新しい哲学であり、
あまり好きな言葉ではないが、拓かれた倫理であるのだから。
経済と原発を併記して、「どちらを選ぶか?」と
二者択一を迫るようなメディアを信じる必要はない。

10日(日)の、原発とエネルギーを考える「朝の教室」
講師は都知事選でも頑張ってくださった弁護士の宇都宮健児さん。
先週、ある会合でお目にかかった。
知事選という熾烈にして、
いやおうなくテンションが高くなる「体験」を
つい最近されたばかりだというのに、
いつもの穏やかで静かな宇都宮さんだった。
「暮らしびと」であることを、脇にやらない姿勢がすばらしい。
「朝の教室」の会場がもっと広いといいのだけれど、
ただいまキャンセル待ちの状態。お許しを。
その「朝の教室」のあとは、
「さようなら原発1000万人アクション」の集会とデモが続く。
週末は幸い天気もいいようだ。
10日(日)は、首都圏反原発連合が主催する国会請願デモも。
日比谷公園に集まり、それから国会に。
11日夜は、品川区立総合区民会館「きゅりあん」での集会。
きゅりあんってラテン語で「集会所」の意味だとか。
集い、考え、考えたことを広め、深め、
さらにもう一度自分に引き寄せてよう。

宇都宮さんともお目にかかれた先週の会合。
故高木仁三郎さんのパートナーもお見えになっていた。
大勢の中での立ち話だったが、互いに涙ぐんでしまった。
「朝の教室」の前身で、最初の講師をつとめてくださったのは、
高木仁三郎さんだった。