2013年6月3日月曜日

6月3日

2日は、東京だけでもそれぞれ三つの会場で、反原発の集会が行われた。
共通のロゴを作って連帯しあっての、集会&パレードだった。
「さようなら原発」は、昨年の5月5日、日本中の原発が止まったあの記念すべき日の集会と同じ、芝公園で。
狭い公園に、各地から、大勢の方々が集まった。
大江健三郎さん、鎌田慧さん、そして原発立地の各地から参加された代表のかたがたのスピーチなど。
天気が崩れるという予報もあって不安だったが、開始の頃にはピーカンに。特別注文したような晴天に。
陽射しは強く暑かったが(おひとりが熱中症に)、湿気は少なく、風も気持ちよかった。
それぞれのスピーチのあと、芝公園から日比谷公園までパレード。
途中、日曜でひとはいなかったが、東京電力のビルの前ではシュプレヒコールを。
このところ、腰が痛かったのだが、日比谷公園まで歩いたら、なんと!完治していた。
椅子に座るより、姿勢よく歩くほうが腰にはいいみたいだ。
大江さんも鎌田さんも完歩された。

今日月曜は、午後一番に、新宿で関東の介護士さんの集まり。
そのあと一度クレヨンハウスに寄って(寄って、という感覚は問題だ。わたしのベースであるのだから)、
夕刻から明治大学リバティータワーで、経産省前テントひろばの応援団の講演会が。
そのあと、申し訳ないのだれど、途中から抜けて、
岩波ホールの支配人だった高野悦子さんのお別れ会に参加。 

新聞等の報道はほんの数行になっていたが、以下、2日の集会でのわたしのスピーチ。

南海トラフ巨大地震をはじめとして、近いうちに大きな地震があるのではないか、
という報道が日々されています。そういう「地球の時代」を、わたしたちは生きています。
ハリケーンにしても同様でしょう。
しかし、「予知困難」と言われる巨大地震の報道や、ハリケーンの報道を、国は、メディアは、
なぜ原発を全く独立した別個のものとして報道するのでしょう。
3・11を既に過去のことにしてしまっているのでしょうか。
テロについても、同様です。
テロを問題とするのなら、原発の存在をまず考えるべきではないですか。
防衛費は増やしながら、福祉は狭めながら、事前の防災を呼び掛けながら、
原発と連動して考えようとしない、この国の相変わらずの「国策」に、わたしは抗議します。
私たちは異議申し立てをしてきました。
原子力発電はもとより、この国を覆い尽くす「原発的体質・構造」そのものに。
けれど、聞き耳を持たない現政権は原発と原発的体質、構造をそのままにして、
トルコに原発を売り、さらにインドにと海外の国々を訪れています。
福島第一原発の事故の収束をまったく見ないまま、平然と「死の商人」となっているのです。
10万人以上のひとびとが、家に、郷里に帰れないまま、放置されているのです。
だから、わたしたちはまっとうな市民感覚を素手に握り、闘い続けましょう。
現在は少し控えていますが、夏の参院選の結果によっては、
96条の改悪、そして憲法そのものの改悪もまた出てくるでしょう。
現政権が、福島の人々から、憲法が保障した生存権を、基本的人権を、
主権在民を奪い続けている事実にも、わたしたちは抗議しましょう。

まずは先の選挙で棄権をした多くの層をいかに選挙に呼び戻すかです。
呼び戻すことができたなら、この流れは確実に変わり得ます。
同時に、「違いは違い」としたまま、とにもかくにもこの時代を拓くために、
いくつかの野党は、「柔らかな結束」はできないのでしょうか。

幼い頃に遊んだ「結んでひらいて」を思い出してください。
ネットワークという言葉を、時にわたしはニットワークと言いかえますが、
ここでは「結び」、ここでは「ほどき」というネットワーク、
ニットワークを実現できないのでしょうか。
たとえば反原発、たとえば憲法改悪阻止を二つのメインイッシュウにし、
柔らかくつながることは本当に、真実、不可能なのでしょいうか? 
どうせ、と結論を早々に出す前に、です。
わたしたちは、ある地方に、そこに暮らす人々に、
「いのち」と「安全安心」に犠牲を強いたまま、暮らしてきました。
福島も沖縄もそうです。明らかなるこの差別に、加担し続けることはできません。
人あっての、発展です。子どもの未来あっての、繁栄です。

「開発」という名の、「発展」という名の、「拝金」という名の堕落と破壊に、
まやかしの繁栄にわたしたちは抗議しましょう。
この鎖から、わたしたち自身を解き放つことができるのは、
結局はわたしたち、ひとりひとりです。

わたしたちはすでに「権力」の正体に、彼がもくろむ社会に気づいているのです。
無この市民を不安と不穏と不信の中に突き落としながら、
自分たちは安全地帯に置いてきたのが、権力です。

だから、わたしはわたしに問いかけます。準備はできてるかい?
なにをしかけられても、どんな場合でも、どんな状況になっても、
わたしたちはわたしたち自身を裏切らないか? わたしはわたしを売り渡さないか?と。

わたしたちには権力はありません。いらんと思う反面、事故以来、欲しいと思うわたしがいたのも確かです。
けれど、彼らを越えるものが私たちにあるとするなら、
わたしたちには愛するものがいる、心からそのひとの幸福を祈るひとがいる、ということです。
それは子どもや孫、あるいは血縁はなくとも、誕生前のいのちで、わたしたちがこの社会を譲りたい存在です。
あのひとたちが欲得で結びつくのなら、わたしたちは、友情や共感で結びつけるはずです。
わたしたちには、安全・安心・平和という名のゴールを求める権利があります。
わたしたちは、沖縄の人々を苦しめながら、沖縄の過去と現在を体験しています。
わたしたちは福島の人々、ほかの原発のあるところの人々を苦悩させながら、原発を体験しています。
大事なことは、体験そのものではないでしょう。
体験から何を引きだし、何を引き受けるかです。
そしてわたしたちは、何を引き受けるか、すでに答えが出ています。
このところ、見せしめとしか思えないような逮捕が続いています。
細心の注意とデリカシーと、果敢をもって、今日も元気に歩きましょう。
無理はどうかされないでください。