2012年2月29日水曜日

2月29日

天気予報が伝えてはいたが、朝、目を覚まして
「こんなに!」
雪が舞っていた。
こういった時に限って、
やらなければならない未決の事項やらアクシデントが重なって、
ばたばたと走り回った一日だった。
早朝に家を飛び出して、22時にようやく帰宅。

表通りの雪はあらかた消えつつあるが、
住宅街の道や裏道などの雪はそのまま。
明日の朝は要注意、と雪にはてんで弱い東京の住人の、
これは物言いだが、この寒波。
明日から3月。間もなく「あの日」から一年を迎えようとしている。
被災地の雪が気になってしかたがない。

3月10日から、クレヨンハウス東京で始まる
『福島の子どもたちからの手紙』原画展。
胸がしめつけられるような、
子どもの手紙が、絵が、こんなにも!
是非、ご覧ください。

2012年2月27日月曜日

2月27日

本の間から栞がでてきた。
でてきた栞を手に、しばし言葉を失った。

栞の「謹呈」の活字の後に、記されているお名前は「綿貫礼子」さん。
自筆の文字にも鮮明な記憶がある。
20年以上も前にいただいたご本にも、この謹呈の栞があり、そこに記されていた文字と同じである。
特にファーストネームの「礼子」の「礼」の字に特徴があった……。
文字の記憶というのも、あるのだ。

綿貫さんは、今年の1月30日に亡くなられたことは出版社を通して存じ上げていた。
「朝の教室」への講師にもお願いしたいと願ってきたのだが……。
綿貫さんは「チェルノブイリ被害調査・救援」女性ネットワークの代表として、
チェルノブイリの子どもたちの健康問題を調査研究をされてこられた。

女性ネットワーク事務局からお送りいただいた2冊の本。
1冊は、綿貫礼子さんの最後の書籍となってしまった
『放射能汚染が未来世代に及ぼすもの……「科学」を問い、脱原発の思想を紡ぐ』(新評論)。
栞のサインは、「病床の最期の日々に彼女が心込めてしたためたものです」とある。

もう1冊は、チェルノブイリの事故直後に綿貫さんが編集された
『廃炉に向けて……女性にとって原発とは何か』(同じく新評論)
昨年、オンデマンド版で復活したもので、この本にかかわった女性たちの中には、
亡き青木やよひさんのお名前も。
綿貫さんも青木さんも、フェミニズムの活動や勉強会での大先輩だった。
病床での、結果的には最期の日々での栞へのサインに、綿貫さんは遺志を込められたのだろう、
どれほどのエネルギーを振り絞っての、サインであったか。

栞を大事なものだけを入れておく小箱にしまって……、
改めてしっかり、綿貫さんの想いを受け止めたい。
綿貫礼子さんとチェルノブイリ被害調査・救援女性ネットワークには、
『誕生前の死―小児ガンを追う女たちの目 (SAVE OUR PLANETシリーズ)』(藤原書店)もある。

2012年2月26日日曜日

2月26日

朝4時起きで、『朝日ジャーナル』の原発特集号のゲラ校正を。
それから、じゃがいも、にんじん、たまねぎ、セロリ等で作った
野菜スープとレーズンブレッド、トマトと菜の花のサラダ、
オムレツ、コーヒー、いま最もおいしい柑橘類、ネーブルで朝食を。
ちゃんと朝ご飯をつくって、しっかり食べた朝は気持ちいい。
今朝はおなかがすいたな、と思って、気が付いた。
昨夜遅くに帰宅して、夕ご飯を食べようと思いながら、
眠ってしまったのだ。むしろ、胃は快適。

出がけにプランターのグリーンたちに、いつもより少し丁寧に水やりを。
緑の色が、わたしの暮らしのバロメーターでもある。
色が鈍くなったり、葉っぱにうっすらと埃がついていたりしたときは、
わたしの暮らしが鈍くなっている証拠だ。
贅沢はしない。いまあるものを大事にしながら、気持ちいい暮らしをすること。
それも「たたかいびと」の必須アイテムだ、と書いて……。
仕事部屋の散らかり放題から目を逸らす、わたしがいる。

愛媛で講演。

2月25日

小雨がちの土曜日の朝。
弁護士海渡雄一さんを講師にお迎えしての「朝の教室」。
法治国家に暮らすわたしたちが法をもってして、反原発を通すには……。
わかりやすい、「わたしにもできる方法」についてのお話をうかがった。
受講されたかたからも、「3000円で大間原発の原告のひとりとして登録できた」
といった声もあがって、「わたし」にできることが「ここ」にも「そこ」にも。

海渡さんの「いろいろな方法がいろいろなまま、あっていい」という言葉が印象的だった。
どれがいい、とか、どれが一番ではなく(運動体は時として、この罠に陥りやすいが)、
それぞれが選べばいいし、むろん並行してやっていく、でもいい。

「朝の教室」の後は、朝日新聞の取材。
そのあと近県へ。
東京新聞25日付「こちら特報部」に、
原子力ムラでまん延する「東大話法」についての特集。
安富歩さん(東大教授)が、インタビューに応えておられる。
原子力ムラの言葉や言い回し、を
「東大話法」と名付けておられるのだが、
「東大OBや官僚や御用学者に多い空疎な言葉こそが、
一人一人からまともな思考を奪う元凶」であり、それを見破る方法も。
実に興味深い。

「こちら特報部」の記事には必ず「デスクメモ」がつく。
「朝の教室」でも講師をお願いした田原牧さんが
今回のデスクメモでも、胸がすくようなコメントを。
田原さんのブックレット『新聞記者が本音で答える「原発事故とメディアへの疑問」』がまとまった。
「朝の教室」での講演に大幅な加筆修正をしてくださった内容は、何度読み返しても、
鳥肌がたつほど刺激的で、興味深い。
すごいひとだ、田原牧さんは。
自分のところで刊行しているものを大声で宣伝するのは気が引けるが……。
本当にスゴイ! ブックレットになった。
このゲラをわたしはずっと持って歩いて読んでいた。
何頁に何が書いてあることも覚えてしまったが、読むたびに刺激を受ける。
反・脱原発で「たたかうもの」の必須アイテムだと信じている。

2012年2月25日土曜日

2月24日

徹夜をして、反原発の5000字の原稿書き上げた、つもりだったが、
文字数がはるかにオーバー。
ゲラで削ることにして、新幹線に。
高崎で乗り越えて、これまた久しぶりに一時間に一本という
のどかなテイストのある電車にのって、目的地へ。
金曜日の午後ということもあって、電車の中は
近隣の中学生や高校生。そしてお年寄りが主なる乗客だった。

去年の今頃、福島やほかの被災地を走る
電車の中の光景もこうであったに違いない……。
日常が強引に途切れさせられる喪失感は
どれほどのものか。
男女共同参画社会の講演だったが、もちろん
原発についても。
主催者側のおひとりが、
「ぼくも、署名をしました。妻もいっしょに」
とおっしゃってくれた。
三人のお子さんの父親でもあり、
「黙っていてはいけないのですよね」と。

2012年2月23日木曜日

2月23日

あれこれ未決の事項や原稿がたまって、気分は前のめり状態。

ストレステストに対して、「第一次評価だけ」に待ったをかけた原子力安全委員会斑目委員長。
原発をはじめたときに不安だったから1年に1回のテスト制度を設けたのだろう。
だが、テストをやれば安全を確認できるということではないと、いまでは誰もが知っている。
テストは安全の保障にならない。
とはいえ斑目委員長、政府に「待った」をかけたのは歓迎なのだが。
真意をもっと詳しくお聞きしたい。

今日はこれから番組収録。
母の遺影のかたわらに、チューリップを飾りたいのだが、
花屋さんに行く余裕、今日はなさそう。
明日も東京を離れるし……。
ま、今度にしよう。

『福島の子どもたちからの手紙」(朝日新聞出版)を何度も読み返した。
切実な、本当に切実な子どもたちの想いであり、叫びである。

……私の夢は去年と全く違います
……ほうしゃのうをなくすきかいを つくってください
……もうマスクしたくない
……早く外で遊びたいです
……いくつまでいきられますか?

幼い文字で記された、それぞれの子どもの想いを知れば知るほど、
わたしたち大人は、とんでもない社会を作ってきたのだと改めて痛感する。
どんなに謝罪をしても、謝罪しつくせない。
この子どもたちの手紙や絵は、3月11日前後、
クレヨンハウス東京店で展示をさせていただく。
詳しくは改めてご案内するが、どうかどうか、
この子らの想いを受け止めていただきたい。

今週土曜日25日の「朝の教室」は、
学生時代から反原発の活動にかかわってこられた弁護士、海渡雄一さんを講師にお迎えする。
原発を止めるために、わたしたち市民に何ができるか……。
原発をとめるために、法的根拠は重要だ。
その視点から、お話をいただけるはず。
是非、ご参加を。

2月22日

関西方面に出かけていて、ブログのアップに
昨日は「遅刻」してしまった。
昨年の4月4日(土)以来、毎日こうして書いてくると、
1日抜けても、なんだか落ち着かない。

昨年3月11日以降、反原発一色、とも言える日々が続いている。
それがなんであっても、「一色」というのは、本来、わたしが望むことではない。
絶対的で偏りすぎだと思う。
ひとつの社会の真ん中に、ある人種や、ある年代や、あるセクシュアリテイだけが居る、
と言うこと自体、構造的な差別要因にもなる。
また、きわめて個人的な日常も、あること「一色だけ」というのはなんだかなあ、と思う。

闘いがあって、けれど、ふっと肩の力を抜いて、枝先の冬芽に見入る……
そんな一瞬が欲しい。
けれど、こと原発に関することは、もう少し余裕をもって、とは言ってはいられない。
チェルノブイリの事故以降、一年ごとに、半年ごとに、数か月ごとに
エネルギーが半減していった、自分を知っているから尚さらのこと。
反原発エネルギーの「半減期」は迎えたくない。

2012年2月21日火曜日

2月21日

早朝に連載コラムを二つ書きあげて、ほっ。
書き上げた、と書いたけれど、完成度はどうなのか、わからない。
それから軽い朝食をとって、10時少し過ぎに出社。
ビデオ撮りをして、午後いちばんに、
日曜日に「朝の教室」で講演をお願いした城南信用金庫の理事長・吉原毅さんとの対談へ。
ここで少し時間的余裕ができて、デパートのウインドに並ぶクリアランスセールの文字に惹かれつつ、
反原発の原稿の構成を考える。
最終で東京を発って、関西へ。

ここ数日、胃が痛い。
普段はこのうえなくタフなわたしの胃なのだが、
さすがに休みをとれない、この1年が少々こたえはじめたようだ。
それでも、移動中は、本を読む楽しみが。
特に読みかけのままだった本を、もう一度最初から読み直し、
新しいページに入っていく楽しみがある。
今回の旅行には、大逆事件の死一等を減ぜられ、生き延びて、
戦後再審請求を求めて闘った坂本清馬の人生を描いた『残務』(鎌田 慧・著)を持参。
週刊金曜日に連載されていた当時から読んでいたが、ずっしりと分厚い単行本になって刊行。
ここにも、偏向した国策捜査が。
「国策」というものは、市民の存在など鼻から無視して推進されるものだと痛感。

2012年2月20日月曜日

2月20日

新しい月曜日だ。
今日は幾つかの打ち合わせをし、できるだけ早く、と帰宅する予定。
今週も東京を離れる日が続いている。
いつもの締切に加えて、週刊朝日がだしている
「朝日ジャーナル」の原発特集号の原稿も今週締切だ。
過日、外国人記者クラブで「さようなら原発……」の
記者会見でのメッセージに加筆して、というオファーだ。
本来なら、時間的に無理でお断りするところだが、
反・脱原発の呼びかけになるなら、もちろん、了解。
と言いながら、スケジュールノートをみながら、
ため息ひとつ。
明日はまた東京を離れるし、帰京してからも今週は余裕がない。
今夜中にまとめておかなければ。
資料などを参照しながら書きたいので、旅先では書けない原稿だ。
さ、仕事だ。

2012年2月19日日曜日

2月19日

朝の教室。
今日の講師は、城南信用金庫の理事長、吉原毅さん。
企業の中で、いち早く(そのあとが続いていないのも不思議だが)、
脱原発を表明した城南信用金庫。
いわゆる経済界からの講師は、今回がはじめてだ。
1955年生まれのかただから理事長さんといっても、まだまだお若い。
資本主義の社会において、企業が利益を追求するのは当然だが、
「拝金主義」に陥るのは醜悪である。
社会貢献もかけがえのない企業のミッションである。
そんな姿勢から、「どう勉強をしても、原発は間違っていると気づき」、
トップダウンで、脱原発を表明された。
わかりやすく、けれど地下水脈には哲学や倫理のある、深いお話しだった。
会場からは次々と質問が。
「ぼくの彼女は、原発事故で悩みぬいていたとき、
街中で城南信用金庫という看板をみただけで、
一瞬、ほっとできた。わたしたちと一緒に歩んで
くれる企業とひとがいるのだ、と」
そんな発言などもあって、とてもコージーにして、刺激的な一時間半。
今週わたしは、雑誌の対談で、吉原さんとは
もう一度お目にかかることになっている。
「わたしどもの後に続く企業がもっと出てくるかと
思っていたのですがねえ、ごくごく当たり前のことを
言っているだけなのですが」
吉原さんの思いと姿勢は、なかなか経済界には伝わらないのか。
「内心、賛同してくれているひともいるはずなのですが」

このブログのタイトルは、『沈黙の春の日記』だが、
「沈黙」は、それを通して考え、感じ、構築し直して、
発言するために、あるものだと考える。
『沈黙の春』の著者、レイチェル・カーソンが、この
著書を通してそうしたように。
「朝の教室」を終えて、吉原さんとお昼をご一緒した後、
群馬県に。

2012年2月18日土曜日

2月18日

風がしんしんと冷たい、わが故郷、宇都宮から
ただいま帰京。
宇都宮女性団体協議会の三十周年の記念の
講演会だった。
いくつもの女性団体を、柔らかく束ねておられるのが
80歳のSさん。
以前からのお知り合いだ。
反戦・反差別をテーマに長年、精力的に活動と取り組み、
次世代や、さらにその次の世代の育成にも踏ん張って
おられる素敵な女性だ。
こういった先輩が、わたしたち妹の世代に
道を開いてくださった。
おみこしの上に乗るのではなく、一アクティヴィスト
として、いまでも駆け回っておられる。
わたしが敬愛する先輩だ。

話を終えた後、ステージにまた呼ばれた。
宇都宮の女性たちの、「さようなら原発」の
たくさんの署名された用紙を束で手渡していただいた。
心から感謝。
「これから、もっと拡げますからね」。
小柄なこのかたのどこに、これだけのパワーが、と
思う。本当に素敵なひとだ。

それにもしても寒い一日だった。

帰宅してメールをチェックしていたら、
別の素敵な女性からのメールが。
画家の坪谷令子さんからだ。
坪谷さんと去年久しぶりに再会できたのは、
京都大学原子炉実験所の小出裕章さんの
大阪十三であった講演会だった。
聞かれるかたが大勢すぎて、わたしたちは
モニターを通してしお聞きするしかなかったが、
その場で、坪谷さんと「お久しぶり!」。
坪谷さんのメールには、次のような言葉が。

……原発事故が起こったのは本当に不幸ですが、ことの本質を知り、
何をどう変えていくのか…問いを突き付けられたのですから、
正面から向き合い、学び、動くことが、今の、そし未来の子どもたちへの
「せめてもの誠実」ですものね……。

心から同感!

明日の朝はこの冬一番の寒さとか。
9時からの「朝の教室」。
講師は、城南信用金庫の理事長、吉原毅さん。
この反骨のひとの講話は以前から望んでいたのもので、
とても期待している。
寒さがちょっと気にはなるが。

2012年2月17日金曜日

2月17日

今日は小川未明賞の選考会。
迷いつつ迷いつつ、繰り返し繰り返し
作品を読み、「やっぱり、これだ」
と思っていた作品が、大賞受賞!
素直にうれしい。
事務局からご連絡もまだかもしれ
ないので、詳しいことは書けないが。
それにしても、選考というのは、
選考する側のキャパシティの
ようなものを問われるものだ。

最終選考に残った、それぞれの
作品を読んでいたら、久しぶりに
小説を書きたくなった。
母の介護が本格的になった頃から
わたしは小説を書くのを投げてしまった。
エッセイやコラムは書けるのだが、
小説の世界に、わたし自身が入って
いけなかった。
読者としても長編が読めなかった。
今日、同じ選考委員としてお目にかかった
詩人で作家のねじめ正一さんも
作品にも書いておられるように
お母様を介護されている。
先の予定がたたないのが、介護でもある。

いま、母がここにいたら……。
どんな日々を送っているだろう、と時々考える。
母がいてくれた頃、介護をしていた頃、
アフガニスタンへの米国の報復攻撃に反対する集会にも
イラクへの攻撃に反対する集会にもなかなか参加できず……。
申し訳ない思いと、自分の母親だけを考えているのではない
か、という後ろめたさがいつも心にはあった。
ここに母がいま居たら、反原発への姿勢はあっても、
いまほどあちこち飛び歩くことはできなかったかもしれない。

夕刻からの雨が霙にかわって、被災地で今日を明日に
つなぐお年寄りを考える。

2012年2月16日木曜日

2月16日

何日か前にこのブログでご紹介した
福島県双葉郡大熊町で長年農業をされてきた、
佐藤祐禎さんの歌集『青白き光』。
ミズ・クレヨンハウスの店頭にも並びました。
是非、お目通しを。
選び抜いたことばの向こうに、震えるような
憤りがにじむ歌ばかりだ。
そうして、佐藤祐禎さんご自身からのお手紙も
今日、拝受した。
私信であるのでご紹介できないが
(ご紹介しても問題のない、とても素敵な内容ではあるが)、
「国策」である原発の存在に、受け入れたその町で暮らしながらの、
異議申し立て。
その長い長い「闘いの年月」と、決して折れなかった姿勢に、
心より敬服する。
ソローの言葉だったか。例によって一字一句記憶している
わけではないのだが……。
社会をひらいてきたのは、いつだって「少数派である」、
を改めてかみしめる夜。

時折、東京でも雪が舞った。
被災地の雪を思う。

2012年2月15日水曜日

2月15日

今年最初の日本水仙が咲いた。
今年最初のレンギョウの一輪が咲くのを待ちかねた
カレル・チャペックさんと同じように、結局は、花びらが
ほどける瞬間を見ることができなかったが。
すっと伸びた茎の先に、黄色のリップのある
白い花びら。八重咲きもいいけれど、わたしは
一重の、この清々しく凛々しい姿が好きだ。
じっと見ているだけで、少しだけ深呼吸の瞬間が
贈られたような。

54基ある日本の原発の中で動いているのは、
現在たった3基。
電気が足りないという猛烈なる喧伝はされてはいても、
わたしたちの日常には、さわりはない。

既に旧聞に属するけれど、苛酷事故を起こした当の東電社長が
「事業者の権利」など言い放つようでは、到底わたしたち市民は、
納得できない。一体彼らは、この事故でどれほどの人たちが
筆舌に尽くしがたい苦しみを背負わされているのか、想像した
ことがあるのだろうか。
記者会見を観ても、どこかひとごとのようなところが気になって
仕方がない。
枝野さんが東電社長に、政府の資本を注入額に照らして
「充分な議決権が伴う」形での、事業計画の提出を要請したのは、
当然すぎるほど当然のこと。むしろ遅すぎるとも言える。
きちんとした今後の設計図を、まずは福島のひとたちに、
そして一般市民であるわたしたちに示すのが、筋ではないか。
そこを省略しての、電気料金値上げとは、納得できない。

2012年2月14日火曜日

2月14日

今日はヴァレンタインデイ。
といっても、わたしには全く無縁の、寒い一日でしかなかった。
仕事関係の若い女性たちからはチョコのプレゼントを
もらったが。
気持ちも縮こまりそうな空模様だ。

数日前にも書いたが、米国南部ジョージア州ボーグル原発で、
東芝の子会社であるウェスティングハウス製の原子炉二基の建設が認められた。
2016年と17年の運転開始を目指すという。
今朝の東京新聞・社説には、34年ぶりに原発の新規建設を認めた
米原子力事情と規制委員会について、興味深い記事が載っている。
規制委員会の5人の委員のうち4人は認可に賛成したが、
ヤッコ委員長だけは、反対した。
「福島第一原発の事故を教訓とした安全対策が充分に講じられていない」
からという理由だったそうだ。
同じ東京新聞の「こちら特報部」は、
25日に東京で開かれる「原発と問う民衆法廷」について報じている。
この民衆法廷では、弁護士さんたちが検察官役と東電・政府の代理人役となり、
大学の教師たちが裁判官を担当するという。
「民衆法廷」には法的効力はないが、こういった動きが、
誰も訴追をされてこなかった原発事故に関する
新しい立法化につながっていったら、大きな前進になるはずだ。
今までの原発差し止め訴訟のほとんどは、住民側の敗訴となっているが、
民衆法廷では原発事故を刑事事件として、事故の責任者を裁くことになる。
こういった試みを重ねることで、
閉じられたままだった堅牢で強大な扉が少しでも開いたら、
この社会は、少しは「民衆」、市民に近づくはずなのだが。

ちょうどいいタイミングで、2月25日の『朝の教室』の
講師は、過去、多くの差し止め訴訟にかかわってこられた、
弁護士海渡雄一さん。
「市民に何ができるか」という視点での講演が
お聞きできそうだ。期待している。

2012年2月13日月曜日

2月13日

昨日は山形、新幹線の駅でいえばさくらんぼ東根市で講演だった。
強い風が降る雪を巻き上げて吹き付けてくるのを、
山形駅で止まってしまった新幹線からタクシーに乗り換え、
フロントグラスにあたる、雪の渦を観ながら、会場入り。
帰りも山形駅まで主催者に送っていただいて、そこから新幹線に。

「雪が多いとスキー客やスノーボードのお客さんが増えると言われてきたけれど、
原発の事故以来、やはりお客さんは減っていますね。
いろいろなところに、いろいろな形の
マイナスがでているんですよね」
往路のタクシーの運転手さんは
ため息まじりに、おっしゃっていた。
福島はもとより、あらゆるところに、あらゆる大きな負の影響を与えながら、
それでも再稼働なのか。
再稼働の後ろには、「動かし続けなければならない」理由があるはずだ。

2月25日(土)「朝の教室」の講師は、弁護士の海渡雄一さん。
学生時代から原発に疑問を抱き、勉強会に参加。
高木仁三郎さんがお元気でおられた頃だった。
80年代はじめに弁護士になってから、
もんじゅ訴訟、浜岡原発の訴訟などに取り組んでこられた。

わたしの友人や知人にも、原発訴訟の原告になっているひとたちが少なからずいる。
岩波書店から刊行された「原発訴訟」は、独立しているはずの司法もまた、
「原子力ムラ」に取り込まれる場合もあることを指摘している。
再稼働が言われるいま、3月11日を目前にわたしたちは考え、身につけたい。
原発を裁判で止めるには、どうしたらいいのか、を。
是非、ご一緒に学びましょう。そして、学んだことを
机の上の知識にせずに、歩みましょう。

「原発を裁判で止めるには?」 海渡雄一さん(弁護士)
2012年2月25日(土)9:00〜10:30 東京店B1 レストラン「広場」
司会/落合恵子(クレヨンハウス主宰)
>詳細

2012年2月12日日曜日

2月12日

代々木公園から原宿を抜けて、信濃町・千駄ヶ谷方面へ、
と僅かな距離を、かなりゆっくりであったけれど歩いた昨日。
今朝の体調、すこぶるいい。
さぼり気味の、毎朝の早朝散歩を再開しよう。

納豆、豆腐とねぎの味噌汁、アジの干物と卵焼き、
玄米でしっかり朝食をとって、山形へ。
片道の新幹線が3時間近くかかる。
読みかけの本と校正紙をもって、ほぼ6時間の往復路を。

東京は昨日から穏やかな空の色が広がっている。
クレヨンハウスの階段に一段ずつ置いた、
小さな鉢植えのヒヤシンスの花が開き始めた。
いろいろと手入れをしたい植物があるのだが、
ちょっと時間がない。
2月中にやろう。

2月11日

東日本大震災と福島第一原発事故から
ちょうど11か月目。
代々木公園での集会とデモ、に参加。無事終了。

すぐ近くに居るのに、野外ステージまで辿り着けず、
迷子になって遅刻してしまった。
すみません。
反・脱原発では、迷子などにならず真っ直ぐに歩いていく。

日差しはあるのに、風が冷たい土曜日。
1万5千人近くが各地から。
福島の有機農業の代表のかたもおられた。

解散場所までウォークも無事完了。
デモ用の履きなれた汚れたスニーカーが少々気になったが、
解散場所からそのまま板橋へ移動。
「子育て支援」の大会で話を。
もちろん今日の集会の話や反原発についてしっかり話をしてきた。
足も痛くならずに、快調。

何か月前かのこのブログでも触れたが、米国で34年ぶりの原子炉建設認可へ。
原子炉のメーカーは、東芝ウェスティングハウスである。

2012年2月10日金曜日

2月10日

午前中は洗濯機を回しながら、原稿を。
「反原発の活動にしても、女たちは家事をしながらよね」 
青森大間原発の反対運動をしている函館の友人と、電話で話しながら、
といつもの「ながら」を並行しながらの、午前中だった。
午後から夜にかけては、外での仕事。
年末からの風邪が、風邪の症状は消えたのだが、
咳だけ残ってしまったようだ。

明日2月11日は、全国一斉、「さようなら原発1000万人アクション」。
東京は代々木公園B地区イベント広場が出発点。
13時30分開会。
福島県平和フォーラムのかた、生産者のかたがた。
山本太郎さん、藤波心さん、大江健三郎さんなど。

さっき澤地久枝さんと電話でお話しをしたが、
温度と体調をチェックして、「とても行きたい」とおっしゃっていた。
無理をされてはいけないが。
参加されるかたは、暖かな恰好で。
首、手首、足首を冷やさないことが大事とか。

明日はウォークの途中で抜け出して、
(時間によったら完走できそうだ)、子育て支援の大会に参加。
ここでも話をして、署名をお願いしてくる。
ちょっとハードな一日になりそうだが、ご無理のない範囲で、ご参加を。

2月25日、「朝の教室」は、
弁護士の海渡雄一さんが講師を引き受けてくださった。
原発と裁判の関係性を、身近な例を通して、お話しをしてくださる予定だ。

2月9日

今日は長野で講演。

県内の農業に従事する女性たちが
大勢集まってくださった。
最も多い年代が、わがいとしの同世代。
若いかたは少なく、
農業が六十代によって支えられていることを再確認。

寒い一日だったが、もこもこに着ぶくれて行ったので、
きりりとした冷気がむしろ心地よかったが。
諏訪湖が全面凍結、したのだもの。
TPPのこと、むろん原発のことも話してきた。

女たちはいいな、と実感させられた一日だった。

帰京して気が付けば、間もなく午前2時。
慌ててブログを書いている。

2012年2月8日水曜日

2月8日

一昨日、ご紹介した佐藤祐禎さんの歌集『青白き光』、
クレヨンハウスでもお取扱いすることができることになりました。
まずはご報告を。近日中に、店頭に並ぶ予定です。

今日はお昼から外国人記者クラブで
大江健三郎さんや鎌田慧さんと記者会見を。
再稼働中止と、原発の即刻の廃炉をアピール。
みんなと一緒にお昼を食べて、
それから、
会見と質問タイムというタイムテーブルだった。

以前、お目にかかったことがある
外国人の記者のかたがたとも再会できた。

会場の記者のかたからは、
なぜ日本人はもっと怒らないのか、
それが不思議だ、という声も。
そして受け身がちの日本人がどれだけ脱原発ができるか、
「ドイツの緑の党」とのような党をつくらないのか、
という疑問もまた。

見ていてください! である。

2012年2月6日月曜日

2月6日

福島の大熊町で農業をされていた歌人、佐藤祐禎さんの『歌集 青白き光』を、
発行元のいりの舎、玉城入野さんから送っていただいた。

昨日は群馬県沼田市で講演だったので、新幹線の往復路で、
そして帰宅してからも、白地にブルーの罫線が入った原稿用紙様の表紙の歌集を
何度も読ませていただいた。

現在80代の、反骨の歌人が詠んだ凛々しくも深い短歌である。
佐藤さんは歌集の中で元号を使っておられるので、それに従ってご紹介をするが、
昭和58年からスタートする歌集は、平成14年で終わっている。
が、昭和60年代には、すでに原発への拭いがたい不信と不安と不穏を詠んでおられる。
いりの舎の玉城さんにご了解を得て、幾作かご紹介する。

昭和63年

原発が安全ならば都会地になぜ作らぬとわれら言ひたき

線量計持たず管理区に入りしと言う友は病名なきままに逝く

平成元年

農などは継がずともよし原発事故続くこの町去れと子に言ふ

「この海の魚ではない」との表示あり原発の町のスーパー店に

そうして、歌集の最後は今回の苛酷事故を予言したかのような、
次の歌でしめくくられている。

いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列なる

『歌集 青白き光』定価700円(本体667円+税)
いりの舎のご連絡先は、以下の通りです。
〒155-0032 東京都世田谷区代沢5-32-5
電話 03-6413-8426

2012年2月5日日曜日

2月5日

今日も朝から東京を離れた。
たったいま、戻ったばかりだ。

このところ、ゆっくりと机の前の壁と向かい合い、
机の上に立てかけた母の写真を見ることがない。
母の写真だけではなく、すでに見送った女友だちの写真も飾ってある。

岩波書店で、わたしの本をずっと担当してくださったH・Tさん。
穏やでありながら、凛としたひとだった。
彼女が最後に担当してくれたのが『崖っぷちに立つあなたへ』だった。
原稿にはすべて目を通し、的確なアドバイスをしてくださった。
彼女が生まれ育った成城の駅前の、きれいな喫茶店で、
「わたしに何かあったときは、このひとが後をついでくれるから」と
若い女性編集者を紹介してくださった午後。
「そんなことは言わないで」という言葉を挟ませない、
明快な彼女の口調に、わたしはうなずくしかなかった。
Tさんを結果的に見送ったのが、1月。

その前の年の12月末には、やはりかけがえのないK・Kを見送った。
激しいひとだった。激しいひとの、激しい正義感が、
いつも社会にオブジェクションを唱えていた。

去年の9・19「さようなら原発1000万人アクション」では、
Tさんのおつれあいも娘さんも参加されたという。
ふたりの、心から共感する女性を見送った、あの冬を思い出す。
東京の海際の病院と池袋の病院と。
ふたつの病院の間を、直線で車を走らせた日があった。
Tさん、Kさん。
あなたがここにいたら、いっしょにやっていたことを、
わたし、やってるからね、と
2・11のデモの予定表を見ながら心の中で呟く旅の空。
自分のラストステージについて、
確かな足跡を刻みながら、歩み続けた彼女たち。
いつだって、いっしょだヨと子どもみたいに呟く。

2012年2月4日土曜日

2月4日

ちょっと暖かくなったかな、と感じる土曜日。
とはいうものの、相変わらず一方では積雪で苦しむところもあって、こんな時、
世界地図では小さな日本列島が広い、と感じさせられる。
とはいうものの、やっぱりこの小さな地震大国に原発が存在すること自体、理にかなっていない。
原発を推進したひとたちの中には、理系のひとが多いはずだが、
理にかなわぬことを、事故のリスクから目を逸らし、
すすめるという感覚がわたしには全くわからない。
今日は、羽村市で講演。大勢の方が受講してくださった。
原発の話もした。
「2・11のデモに行きますよ」
そんな声をかけてくださったかたもいらっしゃった。

「覚えていますか?」
遠い昔、わたしが生まれてはじめて出版した長編小説を持参されたかたもおられた。
シングルマザーになることを選んだ、ひとりの女性が主人公だった。
いま読み返すと、穴を掘りたくなるような文章だろうが、
彼女はその本を大事にとっておいてくださったという。

当時彼女は大きな組織の組合の女性部に所属していて、
そこで話をしたことがあったという。
そうして、40年近く前のことだ。
その後、生まれたふたりのお子さんも成人し、少しだけ肩の荷がおりた昨年、
夫は入浴中に突然、亡くなったそうだ。
知的な感じのする、きれいな方だ。
「人生いろいろあるのですね。気持ちの整理がついたら、手紙を書きます」
もっとゆっくりお話しをしたかったが、帰路につく時間になってしまった。

本当に、人生いろいろあるのだ。
それでもひとは、自分の道を歩いていく。
遠い昔に書いた小説も、ある意味では社会の約束事に異議申し立てをする女性だった。
いろいろある人生で、それでもわたしが共感し、書きたいと思うのは、
そういう女性(男性)像であることは、40年がたっても変わらないことであるようだ。
年月によって変わるものと、しかし変わらないものと。
その両方を手に、ひとは自分を生きていくのかもしれない。

2012年2月3日金曜日

2月3日

「脱」なのか、「反」なのか、はたまた、と
夜の新宿で熱くなって話した。
むろん原発についてである。
「卒」というひともいる。
わたしはチェルノブイリの事故以来、
「反」という言葉を使ってきた。
いまでもその思いは強い。
でも、反でも脱でも卒でもいい。
終止符を打つ、それしかない。
と、「廃原発」と言ったひともいた。
なるほど! である。
呼称は大事だが、向かうところがひとつであれば、
どれもOK.
わたしはやはり反にこだわりたい気持ちもあるが。

お知らせを二つ。
2月の「朝の教室」。
19日の城南信用金庫の理事長、吉原毅さんのあと、
●2月25日(土 9:00〜)は、弁護士の
海渡雄一さん(弁護士)が講師で来てくださる。
「原発を裁判で止めるには?」
わたしたちがいま学びたいことの、大事なひとつについて
プロの立場からのアドバイスと提言。
是非、ご参加を。

それともうひとつ。
『朝の教室』に参加されたかたがた、
あの小さな空間でのこの教室も述べ2000人のかたがたが
参加してくださったことになる。そして、長らく是非講師を、と
いう声があった京都大学原子炉実験所の小出裕章さんの
講演がようやく、決定した。
4月22日 13時 会場
      14時 開演
      多くのかたが参加されるので、クレヨンハウスの
      スペースでは無理なので、会場は青山学院大学の
      講堂をお借りすることに。
受講ご希望のかたの申し込み方法などについては、
クレヨンハウスのホームページをご覧ください。

2012年2月2日木曜日

2月2日

2月2日
今日も寒い一日だった。
午前中いっぱいは、自宅で原稿書き、
と言いたいところだが、女友だちと電話で、
1時間以上、話をしてしまった。
青森下北半島の大間原発に
反対活動をしているひとだ。
 
午後、仕事で外に出たら、風が冷たい。
 
途中で資料をとりにクレヨンハウスに立ち寄って、
GOOD DOGという表紙の文字に惹かれて、一冊の薄い本を購入。
帯に隠れて、GOOD DOGの下にSTAYという言葉もあった。
犬が出てくる本には目がない、わたしである。
買ってから、著者があのアナ・クィンドレンであることを知る。
ニューヨークタイムズ紙のコラムでおなじみの女性作家で、
ずっと以前に、タイトルは思い出せないが、翻訳された彼女のコラムは『HERS』にも収録されていた記憶がある。
今回購入した本は、今夜これから読むのだから、
内容について詳しくは知らないが、サブタイトルは「愛犬ボーが教えてくれたこと」。
アナの愛犬はラブラドール・レトリーバーであるようだ。
 
わが家には、バースという名のゴールデンがいた。
いいやつだった。ほんとに、素敵なやつだった。
生まれつき後ろ足の一方に形成不全があって、
長いこと走ったり、はしゃぎすぎたりすると、
うずくまってしまうところがあったが、
それらすべてを含めて、バースはバースだった。
 
母を介護していた頃、バースは夜中に二回、
母のベッドを覗き込み、それから母のベッド脇で仮眠をとっていたわたしのほうを覗き込み、
それから、一方の足を少し引きずる独特の足音を廊下に刻みながら、
自分の寝場所に戻っていったものだった。
 
震災や原発事故で、愛する飼い主と離れ離れとなった
動物たちの情報に接するたび、
バースがわたしに贈ってくれた愛情を思い出す。
それは人間のわたしがカレ(バースは男子)に贈ることができた愛情の何百倍もの深く、まっすぐな愛だった。
バースが逝って7年。いまでも、朝目覚めた瞬間、
「バース」と呼んでいるわたしが時々いる。
 
1月31日、米国サンディエゴ近郊のサンオノフレ原子力発電所で
原子炉一基が緊急停止したというニュースが。
この事故で負傷者は出ていない模様だが、
微量の放射性物質が大気中に漏れた可能性はあるらしい。
折しも、かなり大きな地震がくるのではないかという予想が、この国でも。
この地震大国に原発を持ち続けること自体、犯罪ではないか。

2012年2月1日水曜日

2月1日

今日から2月。
連日の寒さが少しだけ和らいだような2月のはじめの日。
今日は朝からクレヨンハウスでいくつかの会議や打ち合わせが。
久しぶりにクレヨンハウスで長い時間を過ごしている。

この数日間に届いた郵便物の中に、一冊の詩集がある。
菊田 郁(ご本名 郁郎)さんというかたが書かれた『沈黙の海』。
淡い水色の表紙に記されたタイトルの横に、追悼詩集とある。
42ページのこの詩集を繰っていて、「がれき」という一編の詩が心に突き刺さる。
作者の菊田さんにいま、電話でご了承を得たので、ここにご紹介したい。

   「がれき」
   ひとくちに
   〈がれき〉と言ってしまえば
   それだけのことかもしれない
   だが〈がれき〉なんてひとつもない
   どれもこれも
   家族が長い時間をかけて
   こつこつと積み上げてきた
   思い出の詰まったものばかり

   ガラスのかけらひとつにも
   泥水に浸かった人形にも
   散乱している皿や箸やスプーンにも
   夜見世で買った指輪にも
   みんなみんな
   たくさんの想いが込められている

   けんかもしたけど
   笑いもあった
   このテーブルでみんなで食事をした
   こどもの誕生を喜び
   老人の死を悲しんだ
   折れ曲がり泥にまみれた柱は
   もう何の役にもたたないが
   それらのことをみんな見つめて
   一緒に笑い一緒に泣いた

   〈がれき〉なんてひとつもない
   ほんとうにひとつもない
   みんな宝物ばかり


教師として
「かつて勤務した気仙沼、南三陸町志津川、石巻で亡くなった
多くのひとへの追悼と被災された方々への心痛に想いを馳せながら、
また、依然として続いている原発への不安と怒り、警鐘を込め」
菊田さんは言葉を紡がれたとおっしゃる。

   反戦 反安保 反体制 反原発
   反対は いつも排除され
   虐げられてきた

……そんな書き出しで始まる「反対」という作品もある。

価格700円(郵送費含)(内300円はみやぎ震災遺児募金に寄金します)と。
ご本人に確認をとらせていただき、住所もどうぞということで、ここに記す。
連絡先 〒987-0511 宮城県登米市迫町佐沼字的場14-1

「反対」という詩には次のような文言もある……。

   反対はいつも少数だ
   反対はいつも孤独だ

けれど反対の少数は知っている。
少数は、小さな、きわめて小さな声を搔き消すことなく抱きしめて、
孤独のただなかで柔らかくつながる術をいま学びつつあるのだ、と。