2011年7月6日水曜日

7月6日

七夕の短冊に「ほうしゃのう こないでよ!」という幼い文字を見つけた。
どこかの幼稚園や自治体の七夕祭りの短冊にも、同じようなことばがあったと聞いている。
福島から遠くはなれて暮す東京の子どもたちも、放射能を恐れているのだ。
子どもたちが原発のある社会を選んだわけではいないのに。

このブログでも触れた玄海原発の再稼動について、
毎日放送7月4日放送の「たねまきジャーナル」で、
京都大学原子炉実験所の小出裕章さんは(ご本人が「さんと呼んでください」とおっしゃるので)、次のようにおっしゃっている。

「国が安全だと言い、国が責任を持つというのですが、それなら、福島には安全性は保障していなかったのか。福島は地震の確率ゼロで、安全と言っていた、地元の人も信じていたのに事故になった。原発は事故になったらとんでもないのに、「国が安全というのだから、だから大丈夫」となぜ知事がそんなことを言えるのか。
玄海原発は老朽化しており、敦賀の1号機、美浜の1号機も誕生して41年。
老朽化は玄海のみではないが、老朽化すると、玄海では圧力容器の壊れる可能性がある。(中略)
(玄海原発の危険性については、東京新聞「こちら特報部」でも特集していた。落合付記)
鉄も中性子を浴びると脆くガラスのようになり、玄海のものは、90℃程度でガラスのようになり、90℃に冷やすと「割れるように壊れる危険性がある。
そうなれば手の打ちようがない(容器なし=メルトダウン、大気中、地下に出て行く)、環境に放射能が出るのです。
どのタイプ、何年たてば危ないかは、電力会社も分かっていない。
原子力は1954年に商業用原子炉がソ連で始まり、まだ新しい。何年持つか、40年と思いつつ、40年持つかは、原子炉に試験片を入れて、鉄がガラスになるか見ているものの、それでも不明で、敦賀でまだ動いている。安全性を食いつぶしてやっているのです」

ラジオ放送を聴いてまとめ、メールで送ってくださるひとが関西におられ、
それをご紹介しているので、ミスがあったら、ごめんなさい。

とにかく、玄海の再稼動はめちゃくちゃだと思う。
安全を保障というけれど、一度暴走が起きれば、誰もどのようにも手をつけられないのが原発である。
このときに、再稼動を要請する政府も政府なら、それを受け入れる側もやはり問題ではないか。
経済がすべての背景にあるのだが、一度ことが起きたら、どうしようもないことは、現在進行形の福島で起きていることではないか。

さらに、札幌の友人が北海道新聞の記事を送ってくれた。
毎日新聞のスクープでご存知だとは思うが、モンゴルに「核のゴミ」の処分場を作りたいと、「捨て場」を作りたいと、東芝の社長がアメリカ政府高官に計画推進を要請する書簡を送っていたのだという。
フィンランドの核廃棄物の最終処分場を撮った「10万年後の安全」についてはブログに書いたが、国内の予定地に「アメとムチ」を使って原発を作り、今度はモンゴルに同じような手を使い、核のごみを押しつけるつもりなのか。
アメリカが「死の灰」を撒き散らす実験をしたのも、自分たちが暮らすところから遠く離れたビキニ環礁だった。
そして第五福竜丸は被曝し、久保山愛吉さんが亡くなったことは、当時子どもだったわたしも知っている。
どこで実験するかには、明らかに「人種差別」があったはずだ。
同じことを今度は原発暴走の収束もつかない、この国がするのか。
なんと酷い、なんと非情な国なのだろう。