2011年5月6日金曜日

5月6日

「こどもの日」が終わって、いつもの金曜日が戻ってきた。
しかし、戻らないものがある。戻れないものもある。
一度失い、奪われたいのちは、戻ってはこないのだ。
そうして、これ以上わたしたちは、いのちを、健康を奪われてはならない、特に子どもや若者は。

福島郡山市では、自治体の判断で、年間積算暫定規準の「20ミリシーベルト」を減らすために、校庭の土の表面を除去する作業を行っている。
その結果、4月27日の除去前には3・3ミリシーベルトあったものが、
表土を除去した後では、1・7ミリシーベルトになったというニュースもある。
しかし、すべての土の表面をくまなく測定しているわけではないだろうし、
なによりも問題なのは、除去した土の行き場がなく、
校庭などの片隅に積まれた仮置き状態が続いているということだ。
東京電力は、法的にもこの除去した土を安全に集め、
安全に保管する責務(このひとたちの「安全」は信頼できないが)と、
そのための費用を担う義務があるはずだ。
が、申し入れた郡山市に対する返事は、連休明けまで待つように、というものだったという。
たぶん今日あたり返事があるのだろうが。
単なる「生ゴミ」の話ではないのだ。
いまもって収束が見えない原発暴走の過程で起きた「大事件」である。
「連休明けまで」という返事に、彼らの、「お役所風」な姿勢が見える。

今回の20ミリシーベルトに対する文部科学省や厚生労働省、原子力安全委員会の、このうえなく曖昧な答弁とどこかで重なると感じるのは、わたしだけだろうか。
汚染された土の除去作業をしているひとたちも、
たぶん同じ県内の作業に従事するひとたちだろう。
誰が、安全・安心を保障するのか。
責任の所在を曖昧にすることに腐心するのが、「エライひと」たちが必死に取り組む、唯一無二のことなのか。

さらに、保育所は厚生労働省、幼稚園は文部科学省管轄と縦割り行政もまた、子どもたちの「いま」を脅かす。
子どもは、ひとりの子どもとして生まれ、そこに生きているのだ。
(わたしはずっと「子ども省」として、子どもを丸ごと考える行政の提案をしてきた……)
その子どもの人体への影響は(いろいろな解釈はあるが)、大人の3倍と考えたほうがいいと言われている。
「そこまで考える必要はない」という声もある。しかし、これは「そこまで考えるべき」テーマではないか。
最悪の場合を「想定」して考え、万が一、最悪までいかなかったら、「よかったね」というテーマである。
何年後かに、子どもたちに症状が発してから、「想定外」だったとは、言わせやしない。
その時には、3.11以降の取り決めをしたほとんどすべてのひとは、責任をとれるポジションにはいないだろう。
そしてきっと答えは、「前々任者が」云々になるのだろう。

ひとのいのちを、子どものいのちを、なんと考えているのか。
大人の3倍の影響という数値をもとにしてみると、個体差があるとはいえ、
20ミリシーベルト×3=60ミリシーベルトの被曝が許容されているという恐ろしい数値が見える。
20ミリシーベルトは、今まで類のない規準であり、国際的規準の一番高い数値を敢えて選んだ結果であり、職業的に被曝する大人の場合も、従来の実績では0・7ミリシーベルトに抑えられていたのではなかったか。
「放射能がここまで広がったのだから、もうしょうがない。20にしておこう」なのか。
こういったもの言いはいやなのだが、言わせてもらおう。
今回の20ミリシーベルトの決定に関与したすべてのひとたちは、自分の子や孫を、福島に「疎開」させてみてはどうか。
それでも、20ミリシーベルトという規準はそのまま放置しておけるのか。

以前このブログで記したように、この20ミリシーベルトには、
食物などによる内部被曝は積算されていないのだ。
菅 直人首相。
あなたにも子どもがいる。
あなたたちがなしえた政権交代は一体、何だったのか。
原発が自民党政権下で推進されてきたことは誰でも知っている。
政権が交代したとき、多くの有権者は夢見たものだ。
いままでの政・官・財、ずぶずぶのどす黒い関係性を、新政権が断ち切るのではないか、と。
しかし、「事業仕分け」は何のためのものだったのか。
原発関係の魑魅魍魎がうごめく「事業」には、なぜに果敢に手をつけなかったのか。
なぜに、「天下り」を温存させたのか。
電力会社に勤務する通常の生活者に刃を向けているのではない。
ましてや、多量の被曝をしながら福島第一原発の作業をしている「協力会社」のひとたちを責めているのでもない。

民主党政権もまた、自民党のように、この社会に生きるひとりひとりを切り捨てていくのか。
安全神話の垂れ流しの後に、崩壊した神話をさらになぞり、子どもたちの安全を脅かすのか。
原子力発電はクリーンである、という罪深い神話同様、あなたたちがしていることも、子どもたちのいのちに対する、罪深い神話の上塗りでしかない。

気が遠くなるほど続いた自民党一党独裁を、わたしは一度たりとも支持したことはないが、同じ自民党の中でも、原発に一貫して反対してきた河野太郎議員(様々なハラスメントをされたそうだが)のほうが、はるかに人間として良心的に思えてしまう、このネジレを、元に戻すなら、菅さん、いましかないのだ。

原発を「白紙に戻して考える」という答弁は久方ぶりに耳にする、「あなたらしい」声ではあった。
だが、福島の子どもを放置したままで、「白紙に戻す」ことはできない。
そうして、わたしたちが20ミリシーベルトにとらわれているいまも、
沖縄電力が沖縄に小型原子炉の導入を検討中というニュースが!

なんという国だ、このニッポンは。
「ニッポンはひとつ」じゃない。
ニッポンという国は、こうして声の小さいものたちのいのちと人権を踏み台にして、築かれてきたのだ。
ACジャパンのコマーシャルで流される「精神論」に接すると、気分が悪くなる。
こういった精神論が第二次世界大戦を「聖戦」にし、大本営発表を唯一のニュースソースとした歴史を、わたしたちはこの世紀にも繰り返すのか。
一方の手で心臓をえぐりとりながら、
もう一方の手で包帯をさしだすようなやりかたは、あざとすぎはしないか。