2011年5月4日水曜日

5月4日

日曜の朝というと、いつもは新幹線の中か飛行機の中というように
移動中の時間帯が多く、テレビを観ることは少ない。
が、出かける準備をしながら久しぶりにテレビを観た。
ゆるやかなリベラリズムを感じさせてくれる、好きな番組のひとつだ。
が、番組中、ちょっとした言葉に引っかかって、落ち込んだことを告白しておこう。
わたしがナーヴァスになりすぎているのかもしれない。
目くじら立てて「異議あり!」と叫ぶほどの事柄ではないかもしれない。
福島第一原発についてディスカッションする場面でのことだった。
出演者のひとりが、一字一句、正確に記憶しているわけではないが、
次のようなことを述べていた。
……原発はまだまだ収束がつなかないようだ。
そこで、わたしたち国民のひとりひとりは
選択しなければならないと思う……。
テレビを観ながら、わたしは大きく頷いた。
話は次のように展開すると思い込んでいたのだ。
即ち、今後、わたしたちが原発をどうするか、「脱原発」という選択をし、安全で持続可能なエネルギーに向けてシフトを変える……。
その選択が大事だ、という方向に話は向かうものだと思い込んでいた。
が、そのひとが言ったのは、収束のつかない原発の次なる危機から、
いかに避難するかを、「国民」ひとりひとりが「選択」すべき、だと。
しなければならないということだった。
そうして彼はつけ加えた。
彼自身はすでに避難するルートを確保してあり、
海外の友人から、「いつでも来いよ」と言われている、と。
海外に避難できる、あらゆる条件が整っているひとはいいだろう。
しかし、大方のわたしたちは、逃げたくとも逃げられない現実を背負って
今日を明日につないでいる。
福島の子どもたちは校庭での年間被ばく量20ミリシーベルトを暫定基準と決められた。
それでも、子どもたちや家族の多くは、そこで暮らしていくのだろう。
高い被ばくが予想される地域でも、「逃げられない」年老いた親を介護しつつ、自分も逃げないと決めた息子や娘はいる。
すべては原発があることが原因なのだ。
福島第一原発で作られた電気を使ってきたのは、
わたしや、たぶん発言した彼も含まれるであろう首都圏に暮らすわたしたちだ。
わたしは東京に何が起きても、この地を離れないと決めている。
それが、わが家に戻ることすらできない福島の人たちへの、
せめてもの、わたしの責務であるからだ。
逃げられるひとは逃げていい、子どもや若者にはおすすめする。
しかし、それでも逃げられないひとたちは多いはずだ。

わたしと同世代の発言としては、申し訳ないけれど、ちょっとね、である。
つい本音が出たという意味では、言質を取られまいとして
慎重な上にも慎重な言葉の選択をする官僚たちよりは
マシかもしれないと思いつつも……。
なんだかなあ、の発言に思えたのは、わたしだけだろうか。
怒っているのではない。
かなしいのだ。