2011年5月3日火曜日

5月3日

菅総理に辞任を迫る声が日々高まっている。
永田町でも、街中でもそうだ。
個人的にわたしは既成の政党に何かを
託す思いはすでになくなっている。
それでも、政権交代がわたしたちに、
わたしたちの民主主義を取りもどすきっかけになれば、
という思いはあった。政権を交替させることができるのは、
わたしたち自身だ、という自信が必要だと考えていたからだ。
しかし、せっかく交代した政権で、コップの嵐を見せつけられ、
「ブルータス、おまえもか!」の無念さに
とらわれたのが、この二年間であった。

薬害エイズが判明したとき、当時の厚生大臣として
涙ながらに謝罪した菅さんはどこにいったのだろう。
涙を流せばいい、というわけではないが、
痛みに対する想像力が希薄ではないか、
と彼の答弁を聞きながら思うことがある。
言葉は言葉でしかないが、言葉と沈黙に込められる思いは確かにある。
それが菅さんには希薄なのだ。
しかし菅さんが辞任をして、後は誰に?と考えると、先行きが見えない。
「強いリーダーシップ」を求める声は高まるばかりだが、
強権的なリーダーの出現は、違った意味でおそろしい。

菅さん。いつまでも「総理の座」にしがみつくことはないではないですか。
任期を自ら区切って、「白紙で」と答弁した原発について、
「脱」というヴィジョンを思い切って示したら、いかがですか?
自然災害はおそろしいものだが、今回の大震災の復興を大きく阻んでいるのは、
社会全体に絶え間ない不安と恐怖を
撒き散らしているのは原発の暴走なのだから。
活断層の上に原発があり、「次はどこで?」という恒常的な恐怖を抱えながら、生きていくのはあんまりだ。

ドイツのメンケル首相は、選挙結果を見ての結果ではあるが、
原発推進派から「脱」へと180方向を転換した。
彼女を変えたのは、緑の党に一票を投じたドイツのひとりひとりだ。
この国の統一選は終わってしまったが、菅さんの背中を押すのは、
わたしたちひとりひとりの「声」であることに変わりは無い。

菅さん。支持率がどん底のいまこそ、「でっかいこと」をやる、
またとない機会であることをお忘れなく!
ひとりの人間として、自らの人生を全うすることのほうが、
「吹けば飛ぶよな・総理の座」に居座ることより、
はるかに実りある、はるかに素晴らしい人生に思えるのだが、いかがですか? 
すっから菅、とか、あき菅、と揶揄(下品な揶揄だが)されるより、はるかに。

そうして小沢さん。いま必要なのは、党内を二分しての政争ではないのです。
あなたの郷里、岩手も被災し、多くの住人が苦しんでいます。
ここでこそ、あなたは「正しい豪腕」をふるうべきではないですか。
あなたの口癖、「挙党一致」の時が、今なのです。

きょうは憲法記念日。
福島第一原子力発電所で、放射線を浴びて仕事をしているひとたちに、
基本的人権がはたして守られているのか。
「憲法違反の強制労働」が押し付けられてはいないか。