2011年5月23日月曜日

5月23日

2日間、東京を離れると、いろいろと仕事がたまってしまう。
それでも原稿を書きながら国会中継を聞いていた。
「衆議院東日本大震災復興特別委員会質疑」である。

質問する側は相手の瑕疵を言い募り、
問われる側はなんだか曖昧な言葉で蓋をする………。
そんな風にしか思えない時間だった。
互いが党利党略を超えて、東日本で被災されたひとたちのことを、
そして収束が見えない福島第一原発について語り合い、
なんとかよりよい方向へというのが、
この国が「いま」必要とされている姿勢であるだろう。

質問をしている野党第一党は、長年にわたって原発の推進を
してきた側である。
そのことにして、自分たちはどう思うのか。
そのことをわたしたちは訊きたい。
問われる民主は、現在の原発について今後のこの国のエネルギーシフトについて、もっと明快に答えてはどうか。

23日の朝日新聞の朝刊、「声」欄に掲載された二つの投書が印象的だった。
ひとつはチェルノブイリ原発事故当時、ドイツ、フランクフルトで仕事をしていたという男性らの投書である。
事故当初、フィンランドやスウェーデンに向かって吹いていた風の向きが一変し、チェルブイリから15000キロも離れたフランクフルトに方向へ吹き始めたときの、ドイツ政府の対応について、投書者は書いておられる。すぐに住居地域の緊急告知で自宅待機を促され、学校も職場も休みとなった、と。25年前のドイツ政府の対応は、福島第一原発暴走のそれ(言うまでもなく、現在進行形であるが)、「情報公開の素早さと正確性」に格段の差があった、と。

なにかというと、「風評被害」が問題になる。
が、「風評」を生産しているのは、政府をはじめとする当局の、
情報「非」公開、あるいは「一部」公開、「過小」公開にある。

野菜や茶葉の生産者や、漁業従事者など、
堅実に第一次産業と取り組んできたひとびとにとっても、
動きのとれない苦しみを与えているのは、一体、だれなのか。
パフォーマンスでそれらを食するのを見せられるのも、ごめんだし。

同じ「声」欄、隣のスペースには子どもの被曝を怖れる福島の女性の投書が載っている。
「国によると、この地域の放射線量は大丈夫とのことですが、
専門家である内閣参与が辞任した際の記者会見での発言を聞くと、政府の情報を信じていいのかわかりません」。
これらの「声」が、政治家にはどのように届いているのだろう。