2011年4月28日木曜日

4月26日

………なれてはいけない………

慣れる。馴れる。狎れる。
どれもが忌々しい言葉だ、特にいまは。

なれてはいけない。
忘れてはいけない。
画面から流れてくる「復興」の力強い姿に隠されているホントのことはないか。
画面はそれを伝えてはくれない。
そこに吹く風の冷たさを。そこに在るであろう放射線をも。

なれてはいけない。
忘れてはならない。
収束は見えず、いまだ放射能を撒き散らす原発を。
美談にしてはいけない。暴走する福島原発10キロ圏内、立ち入り禁止区域で、黙々と遺体を捜す警察官の白い防護服姿に。
原発事故さえなければ、原発さえなければ、彼らは「そこ」に、「そのような姿で」存在しなくてもよかったのだ。

なれてはいけない。
忘れてはならない。
「創造的復興」。あのひとたちはそんな言葉を掲げる。
復興は確かに緊急のテーマであるだろうが、しかし、なれてはいけない。

今朝の新聞。第一面に記されるこの文字に。
死亡   13,705人
行方不明 14,175人
無機的な数字に、なれてはいけない。

わたしたちが、それらになれるとき、
わたしたちは、無意識のうちに、「人災」になれることをも受け入れる。

なれることと、忘れることはどこかで重なる。
「忘却のかけら」はいつの間にか「かたまり」となり、わたしたちを占領する。
そのほうがラクだから。そのほうが「創造的復興」という前向きの言葉に見合うから。

それでも、わたしよ、なれてはいけない。
それでも、あなたよ、なれてはいけない。
この大震災の、喪失の悲しみに。
この、決して「想定外」ではない、原発暴走という「人災」に。

わたしたちがなれてしまったとき、被災者は置き去りになり、
奪われたいのちは忘れ去られていく。

社会の、国の、「想定図」に、自分をあてはめてはいけない。
それがいかに酸鼻で、忘れたいものだとしても、わたしたちは刻み続けなければならない。この喪失を、この理不尽さを、この悲しみを、この悲惨さを、この憤りを。
浜岡で、玄界灘で、泊で、福井で………。
原発のあるところではいつでも、暴走が待ち受けているという、目を逸らしようもない真実に、わたしたちはなれてはいけない。