2011年4月30日土曜日

4月30日

4月29日、内閣官房参与として管政権に起用されていた
小佐古敏荘・東大大学院教授が辞任した。
原発の事故対応を批判した上での辞任である。
わたしは、いかなる政権であっても、その政府のPR係になる
可能性のある役職を引き受ける時には
慎重であっていただきたいと願う。
省庁から「忌憚ないご意見を」と参加を依頼されることはあるが、 
そして、その言葉通り「忌憚のない」意見や提案をしたところで、
受け入れられる場合が極めて少ないことを過去の経験からもわかる。
数を並べ、その中に少々の「異議申し立て派」も入れておく……。
それらが彼らのいつものやりかたである。それでも「名誉職」のような
意味合いもあるので、積極的に就く人もいるにはいる。

今回辞任された小佐古さんについてはまったく知らなかったが、
辞任の弁は納得のいくものだ。
4月22日付のこのブログでも書いたが、福島の子どもたち
の校庭利用基準が年間20ミリシーベルトの被ばくを基準に
毎時3・8マイクロシーベルトと決定された。
その決定の過程も不透明であること、交渉のために
福島から参加した母親の切実きわまりない言葉も、このブログで紹介させてもらった。
それらについて、放射線の専門家である小佐古さんは29日に、
官邸や行政機関の場当たり的な対応を批判して辞任を選択した。
年間、20ミリシーベルトの被ばくは、原発の放射線業務従事者であっても
きわめて珍しく、その数値に幼児や小学生にあてはめることは、
「学問上の見地からも、私のヒューマニズムからも受け入れがたい」
この数値(年間20ミリシーベルト)の使用に抗議し、
見直しを求める、と彼は涙ながらに抗議をし、辞任の
記者会見を開いたのだ。

同時にこれは、一学者の辞任を意味することだけでは
ない。このブログでもふれたが、緊急時迅速放射能影響予測
ネットワーク(SPPDIE)が法令に定められている手順に
沿って運用されていないことこと、そして
それらの結果の発表がスピーディでないということ
(4月22日付けのブログ参照)も、今回の辞任につながったという。
福島の子どもたち同様、すべての市民は情報からも
置き去りにされている。

2011年4月29日金曜日

4月29日

「復興」の声のもと。
消されていく悲しみはないか。
踏まれていく憤りはないか。
握りつぶされていくせつなさはないか。
置き去りにされる苛立ちはないか。

ひとつの社会に集う、ほとんどすべてのひとに
災害がのしかかる。
ほとんどすべてのひとは、被害を受ける。
けれど、同じ被害を受けても、その傷と悲しみを
懸命にシェアし、支えあっていても………。
「同じ被害」でも、年代や体調やこころの状態や状況によっても、
微妙な差がやがては生まれてしまう。
「復興」の声に、ついていけない。
蹲ることしかできない。そんな場合もある。
そして、蹲る自分が周囲の足手まといになっているのではないか、
と心砕き、具合の悪さも、湧き上がってくる嗚咽にも蓋をして、
さらに蹲るしかないひともいる。
苦しむひとびとをさらに分断していくことが
「創造的復興」というものであるなら、
社会はどこに向かうのだろう。
いま、この時に乗じての「増税案」もまた。
この時代、この社会で最も大事なものは、
「より小さな声」であるのだが。
「力強い復興」は、その「より小さな声」を
巨大なパワーシェベルで、アスベストが泥に
混じる宙に舞い上がらせ、そして消していくのだ。

2011年4月28日木曜日

4月26日

………なれてはいけない………

慣れる。馴れる。狎れる。
どれもが忌々しい言葉だ、特にいまは。

なれてはいけない。
忘れてはいけない。
画面から流れてくる「復興」の力強い姿に隠されているホントのことはないか。
画面はそれを伝えてはくれない。
そこに吹く風の冷たさを。そこに在るであろう放射線をも。

なれてはいけない。
忘れてはならない。
収束は見えず、いまだ放射能を撒き散らす原発を。
美談にしてはいけない。暴走する福島原発10キロ圏内、立ち入り禁止区域で、黙々と遺体を捜す警察官の白い防護服姿に。
原発事故さえなければ、原発さえなければ、彼らは「そこ」に、「そのような姿で」存在しなくてもよかったのだ。

なれてはいけない。
忘れてはならない。
「創造的復興」。あのひとたちはそんな言葉を掲げる。
復興は確かに緊急のテーマであるだろうが、しかし、なれてはいけない。

今朝の新聞。第一面に記されるこの文字に。
死亡   13,705人
行方不明 14,175人
無機的な数字に、なれてはいけない。

わたしたちが、それらになれるとき、
わたしたちは、無意識のうちに、「人災」になれることをも受け入れる。

なれることと、忘れることはどこかで重なる。
「忘却のかけら」はいつの間にか「かたまり」となり、わたしたちを占領する。
そのほうがラクだから。そのほうが「創造的復興」という前向きの言葉に見合うから。

それでも、わたしよ、なれてはいけない。
それでも、あなたよ、なれてはいけない。
この大震災の、喪失の悲しみに。
この、決して「想定外」ではない、原発暴走という「人災」に。

わたしたちがなれてしまったとき、被災者は置き去りになり、
奪われたいのちは忘れ去られていく。

社会の、国の、「想定図」に、自分をあてはめてはいけない。
それがいかに酸鼻で、忘れたいものだとしても、わたしたちは刻み続けなければならない。この喪失を、この理不尽さを、この悲しみを、この悲惨さを、この憤りを。
浜岡で、玄界灘で、泊で、福井で………。
原発のあるところではいつでも、暴走が待ち受けているという、目を逸らしようもない真実に、わたしたちはなれてはいけない。

4月28日

今朝の新聞1面読み比べで驚いたこと。
東京新聞「浜岡3号機の再開計画 中部電、7月までに
きょう公表 業績見通し決定」の見出し。
他紙にはない。福島原発事故その後の報道が、
日を追うごとに、どんどん鈍くなっているようだ。

いったい、わたしたち大人は何をしていたのだろう。
自己嫌悪に陥る。
チェルノブイリの原発事故。あのあと、わたしたちクレヨンハウスも
脱原発の理論的リーダーと言われた高木仁三郎さんたちをお迎えして
講演会を開いたり、勉強会や上映会をやったり、
「原発を考えよう展」を主催したりしてきた。
折に触れて、「脱」を訴えてきたはずなのに、
ささやかながら活動をしてきたはずなのに………。
ここ数日,ブログに書いている「馴れてはいけない」は
まずは自分自身に向けてのメッセージなのだ。
異議あり、と声をあげながら、結局、わたしは馴れて
きてしまったのかもしれない。馴らされてきてしまったのかも。
それが「いま」であるのだ。
気なることが多すぎた。次々に起きる事件や事象や
理不尽な出来事に優劣をつけることはできず、
異議ありと声をあげ続けていたつもりだが………。
これが馴れてしまうことなのだ、馴らされることなのだと、
痛感させられる。
チェルノブイリ事故から25年。
「チエルノブイリは終わっていない」と述べた
旧ウクライナ地区周辺で活動する医師の言葉がツブテとなる。

きれいな海。そこで暮すトビウオの家族や仲間たち。
何かが爆発して、海が突然変わる。
おとうさんトビウオもどこかに行ったっきり、帰って来ない。
なにか変だ、と、いや、いつもと同じだろう、と。
不安と、その不安をねじ伏せる思いに,心を二分されたまま………。
汚染されつづける海の中で、トビウオのぼうやは………。

いぬいとみこさんの絵本『トビウオのぼうやはびょうきです』(金の星社)を
何年ぶりかで開く。
クレヨンハウス一階、子どもの本のフロアでは、
先人たちが本の中に遺していってくれたメッセージを集めている。

2011年4月27日水曜日

4月27日

なれるのがこわい、なれてはいけない、と昨日のブログには書いた。
それはわたしの、わたしへの指示であり、要求である。

不安や不穏や不信や憤りを心の真ん中に抱えて暮らしていくのは、
辛いことであり、疲れることでもある。
特に、異議申し立てを自分の核に据える暮らしは辛く、疲れる。
だからわたしたちは往々にして、それも無意識に、
それらから目を逸らそうとする。

しかし、今回は目を逸らしてはならないのだと思う。
忘れてはならないのだと思う。
どんなに疲れても、どんなに辛くとも、わたしは、見据えていく、
この現実を、丸ごと。余すところなく。
それもまた、わたしの、被災されたかたがたへの
ミッションのような、責務のような。
福島第一原発でつくられる電気を主に使ってきたのは、
首都圏に暮らすわたしたちなのだから。

いろいろなところで書いてきたが、この構図は、
沖縄の基地問題と、とてもよく似ている。
この国にある米軍基地の75パーセントが沖縄にある。
つい先日、沖縄に行ってきた。
校舎の上を飛ぶ米軍機を見て、ああ、こうして、わたしたちは
暮らしてきたのだ、沖縄のかたたちと、
その地に基地を押しつけて、と再確認した。

誰かの便利のために、誰かが不便や不幸を背負う暮らしはやはりおかしい。
広瀬隆さんの『東京に原発を』というパラドックスはそれゆえ有効なのだが。

おおかたのメディアも原発の「いま」より、
「復興」に、と取材をシフトさせているような。
いたずらに「煽る」のは問題だが、不安から強引に目を背けさせるのも、
「煽る」ことと同根の、誠実さの欠如とは言えないか。

東京新聞の「こちら特報部」が、本当に頑張っている、踏ん張っている。
デスクからひとこと、という小さな囲み記事の中に、
ひとりひとりの生活者でも当然あるデスクの苦悩や憤りやため息が垣間見える。
こういった「体温」を感じる文章に接すると、うれしい。
ファンレターを書きたいほどだ。

2011年4月25日月曜日

4月25日

『さむがりやのサンタ』や『サンタのなつやすみ』、『ゆきだるま』などで
日本でも多くの読者を獲得している、イギリスの絵本作家、
レイモンド・ブリッグズの絵本に『風が吹くとき』(あすなろ書房・刊、さくまゆみこ・訳)という作品がある。

1982年にイギリスで出版された作品で、主人公は、年金で郊外でつつましく暮らすジムとヒルダという名の老夫婦。
漫画のコマ割りの手法を使って、核戦争の脅威という、このうえなくシリアスなテーマを描いた作品で、出版当初から大きな評判を呼んだ絵本だった。

いつも通りの、昨日に続く今日、明日の、はずだった。
町から帰ったジムはヒルダと食事をとりながら、ラジオから流れるニュースを聴いている。
「本日午後、首相が声明を発表(中略)死の灰を避けるシェルターを、3日のうちに…」

ジムとヒルダは、第二次世界大戦の体験者だ。
ニュースに驚愕しながらも、ふたりは当時の思い出話に花を咲かせる。
ヒルダの家の庭には、緑色のペンキで塗った防空シェルターがあり、その屋根の上ではキンレンカが咲いていたこと。隣家はシェルターの上でキャベツを育てていたこと。
「…灯火管制…警報解除…お茶を飲んでいるとまた空襲警報…学童疎開…」
思い出話は尽きない。話をしながら、当局の指示通りに、せっせとシェルターを作る。

ラジオが叫ぶ。
「敵のミサイルが わが国に向けて発射されました あと3分少々です」
「避難してください」、「外に出ないでください」「伏せてください」
衝撃。爆発音。閃光。熱風。

そうして…。当局の発表と指示通りにシェルターを作り、避難したジムとヒルダ……。

訳者は、帯に次のようなことばを寄せている。
…レイモンド・ブリッグズがこの絵本で描こうとした状況は、表向きの形は変わっても、今でも存在しているのです、「表向きの形は変わっても」、核の脅威は存在する。そして、放射能の脅威もまた。

わたしたちの、まさに、「いま」の中に。

2011年4月24日日曜日

4月24日

・・独占を拓かなければ・・

東京は快晴の日曜日。
代々木公園のアースデイは盛況。

クレヨンハウスも、大勢の家族連れで賑わっている。
光の中で、子どもが笑っている。
泣いている。
まぶしげに目を細めている。
若い父親の腕の中で、なにかしきりに訴えている。
母親の膝の上で飛び跳ねている。
子どもは、わたしたちの未来形の夢の形だと、つくづく思う。

今朝、出がけに見たテレビでも、被災地「復興」が大きなテーマとして議論されていた。
被災地に進出した企業を無税とし、民間企業が被災地にどんどん出て行くような「特区」として復興を図る…。といったことが議論されていた。
それは賛成だが、大きな原因のひとつである原発そのものについての言及はあまりないようだった。

いま、福島第一原発の危機が「回避」できれば、(それ自体、かなり難しい状態にはあるが)、それでいいのか。ほかの原発は、そのままでいいのか。
同じような危機が、ほかの原発(この国に54基もあるのだ)で起きないという保証を、誰がどのようにするのか、いや、できるのか。誰もできやしない。
原発の存廃についての議論をさけるメディアの責任を、メディアで生きてきたひとりとして考えたい。また、そのことに疑問を持たないことが、54基まで原発をつくった日本の問題なのだ。
そもそも、電力を作る側、送る側、売る側が、ほぼ「独占」させてきたこの現実こそ問題だった。真実、持続可能な、安全な電力を「買いたい」と願っても、わたしたち消費者が選べない現実をまず変えなくてはならないのではないか。

現行の政・官・財業・学・そして一部メディアの「癒着」を解体しない
限り、福島第一原発と相似形の危機を、わたしたちは同時に「買い続ける」ことになる。

去年の秋に種子を蒔いた、わたしが大好きなロベリアが、小指の爪よりも小さな藍色の蝶々形の花をみっしりとつけていることを今日はじめて知った。
亡くなった母が大好きな花だった。

2011年4月23日土曜日

4月23日

それが何であれ、「いろいろある」ということが民主主義の基本なのだと考える。
ひとつの社会、市でも町でも村でもいいので、ひとつの集合体を想像してみよう。 
その社会に、ある年代しかいないとしたら、どうだろう。  
たとえば三十代しかいない町。たとえば十代しかいない村。
たとえば八十代しかいない市。四十代だけの街、五十代しか住めない自治体というように。
すこやかな社会とは、「いろいろ」が、「いろいろのまま」、違いも含め、
違いが原因で排除されたり、優劣がつけられたりせずに、存在できる社会だと思う。
いまもって収束がつかない福島第一原発の今回の暴走を考えるとき、
「いろいろの論理」から目をそらし、一企業に「独占権」を与えた結果だとも考えられる。

国策として、「独占企業」のように位置付けられてきた電力行政は、「いろいろ」を排除し、その結果、市民が選択できない、危険極まりない、まさに「建屋」を作ってきたのだ。その危険性を隠蔽し、数々の事故さえふたをして、安全・安心・クリーンといった神話をつくり、メディアやアカデミズムを「動員」し、神話の補強をし続けてきた。
それらに異議を唱えるもの、わずかでも疑問をさしはさむものは、排除されつづけてきた。
彼らにしてみれば、異議あるものは、「使わない」、「掲載しない」、「出さない」という、一般は気づかない、見えない「規制」をすればいいのだから。

しかし、それらの安全神話の「建屋」は、今回の暴走で、本物の建屋とともに吹き飛んだ。
そうして現在、昨日のブログに書いように、福島の子どもたちが被曝暫定基準「20ミリシーベルト」(それも内部被曝は積算されない)というめちゃくちゃな暫定基準の中に「遺棄」されている。

子どもへの虐待防止を呼びかけている本体が、少子化対策を打ち出した政府が、「遺棄」という「いのち」への虐待を平然と、しかも暫定基準決定のプロセスも不透明なまますすめているのだ。なんと恐ろしいことか。
電力そのものをいろいろの中から選択し、市民が「買える」社会。そこにも「いろいろの論理」が働く社会を、とこころから願う。

小雨の東京 アースデイの初日に

2011年4月22日金曜日

4月22日

文部科学省は19日、福島県内の子ども(児童・生徒)の
年間被曝線量の「暫定規準」を「20ミリシーベルト」と通知した。
一般公衆の被曝規準は、「年1ミリシーベルト」であると言ってきたのに、
いまなぜ、「20ミリシーベルト」としたのか。
そもそも「暫定規準」はどのように決定されたのか。
決定の過程さえ曖昧で、不透明なままだ。

今度は,子どもの被曝線量について、「安全神話」をでっちあげるのか。
政府は、国際放射線防護委員会(ICRP)の規準を踏まえ、
暫定規準を決定したというが、福島県からの要請を受けた
原子力安全委員会は会議を開くこともなく、県の要請から僅か2時間で、
20ミリシーベルトという暫定規準を決定した、と報道にはある。

国策として、原発の安全神話をばらまいたものたちが、
その神話が崩壊したいまもなお、こうして,子どものいのちを、
親の必死の思いを翻弄しつづけるのか。

さらに、この暫定規準には、「内部被曝」の積算はされていないという。
原発の暴走以来、メディアを通して、被曝には二つあり、
内部被曝と外部被曝があると語ってきたものたちが、
今回の暫定規準では、食べ物などによる内部被曝は切り捨てて、
「20ミリシーベルト」を決定したという。
放射線量は、外部積量と内部積量の「積算」で考えるべきものではないのか。
原発暴走の当初から、「レントゲンを撮ったら」とか
「東京=ニューヨークを飛行機で往復したら」とか「MRIを受けたら」とか、
専門家を自認するものたちが、よくも1側面だけをクローズアップして、
「安全」を強調するものだ、と、そのいい加減さに腹立たしい
思いがしたものだったが、空間線量だけの積算は、
「何も食わずに生きていけ」ということと同じだ。

某番組で一緒だった識者と呼ばれるひとは、「飛行機と同じですよ」と言ったが、
飛行機は利用するかどうか、自分で選ぶことができる。
しかし福島県内で暮す子どもたちは、「選択できない」のだ、どこで暮すかを。 
素人のわたしでさえ、当たり前のこととして考える
内部・外部被曝線量の積算を、なぜ一方の内部被曝だけ外して
シミュレーションをしたのか。許容しがたい事実であり、
子どものいのちと人生を見捨てたような、決定である。

21日、「福島老朽原発を考える会」などの三つの団体が
暫定規準の決定プロセスの公開と、このままでは子どもを守ることが
できないと抗議。事前に質問状も出し、文部科学省の担当者や
内閣府原子力安全委員会の委員などと、参議院会館で面談、交渉。
学校の校庭利用における「被曝限度年20ミリシーベルト撤回」を求めた。
同席した市民団体のメンバーによれば、文部科学省の担当者は、
「放射線管理区域」が何であるかさえ知らなかったという。
以下は何人かの手を経て、今朝、わたしのところに
届いた転送依頼のメールである。交渉に先立って以下のように
発言されたのは、5人の子どもがいるという、福島から来られたひとりの女性であった。
メールには、「ICレコーダーの録音から起こしたものであるために、
聞き間違いなどがあることはご容赦ください」という但し書きがついている。

「私はただの主婦です。5人の子どもを育てている主婦です。
ここにいる方のような学問も知識もありません。
わが子の命を守りたいとここに来た。
生きることの大切さを子どもに伝えてきたつもりだ。
その生きる大切さを一瞬のうちに奪われてしまった現実を伝えたい。
福島の子どもたちは学校の中に押し込められて、
ぎゅうぎゅうづめで通っている。
それが20ミリシーベルトという数字が発表になったその日に、
教育委員会は「もうここで活動していいです」と言ってきた。
本当にそれで安全なのか分からないまま子どもを学校に通わせるのは
不安だというお母さんはたくさんいる。
家庭の中でも、お父さんとお母さんの意見が違う、
おじいちゃんとおばあちゃんの意見が違う。子どもたちはその中で翻弄されて、
家庭崩壊につながっている家庭もある。学校に送り出した後に、
罪悪感で涙するお母さんもいる。いろんなことが起こっている。
私たちただの主婦が分かるように説明してください。
東大や京大や慶応や早稲田を卒業した人たちが
地域に住んでるんじゃないんです。私たちは中学や高校しか出ていない。
でも、子どもを守りたいという母親の気持ちはどこに行っても、
日本中、世界中いっしょです。それを、あなたたちのような安全なところで
のうのうと毎日を生活している人たちに数字だけで決められたくない。
半径10キロ以内のところに対策本部を持ってきなさい。
どんな思いでとどまっているか、知らないでしょう。
私たちは離れられないんです、あの場所を。
生まれた時からずっと何十年も住んでるんです。
子どもたちも、おじいちゃんおばあちゃんも、あの場所を離れたら…。
こんなひどいことをしておいて、数字の実験? ふざけんじゃないよ。
こんなことが許されるんですか。
私はとてもじゃないけど冷静な気持ちでこの場にいられない。
あなたたちの給料、あなたたちの家族を全部、福島県民のために使いなさい。
福島県民を全員、東電の社員にしなさい。給料を払いなさい。
そして安全を保障してください。
私たちは子どもたちを普通の生活に戻してあげたいんです。
母親のこの願いをかなえてください。」

彼女のこの発言を、文部科学省の担当者はどう聴くのか。
政治家は? 専門家は? メディアは? 
そして、わたしたちは!!!!!

2011年4月21日木曜日

4月21日

福島第一原発。原子炉建屋の状況についての報道が、また少しだけ増えた。
無人ロボットが撮影したものが公開されたせいだ。
このまま恒常的な恐怖と絶え間ないストレスを抱え、
すべての、それぞれのわたしたちは生きていかねばならないのか。
そうして、それらにもやがては「慣れていく」わたしたちなのか。
原発に慣らされ、この惨状を知りながら、今度はその恐怖にも慣らされていくのか。慣れこそ、もっとも恐ろしいものであるのに。

日々、新聞には日付けが入った被災者数が掲載されている。
亡くなったかたがたのあとには、行方不明のかたの数が載っている。
が、今回の大震災では、家族全員が行方不明の場合もあり、
行方不明の申告自体ができないご家族もおられるだろう。
「未曾有」を「みぞうゆう」と言い間違えたひとを
メディアが笑ったあの頃の、のどかさを思い出す。

そうして、原発である。
4月20日の朝日新聞朝刊の「声」欄(投書欄)には、
「横須賀の原子力艦は大丈夫か?」という投書が載っていた。
………東日本大震災の津波で、米海軍グアム基地の
保留施設が被害を受け、原子力潜水艦が一時港内を漂流し、
スクリュー損傷……が判明したニュースを受けての投書である。

「『運が悪かった』で済ませるか?」という見出しがついた投書は、
原発推進を支持していた自分を反省し、謝罪した孫正義ソフトバンク社長が
「自らの不明を反省」したことを評価をするという内容の投書である。
「反原発デモ なぜ報じないのか」という投書は、
東京高円寺で10日に行われた反原発の1万5千人デモを、
メディアが報じないことへの異議申し立ての投書である。
危険性を訴えるひとの声を、なぜメディアは無視するのか、を問いかけたものだ。
どれもが、わたしにはまっとうな、生活者のかけがえのない「声」に思える。

メディアには少なからぬ「シバリ」があることは知っている。
電力会社はメディアにとって、最高の「お客様」ではあるのだから。
年間の広告出広料と量を考えれば、たしかにそうだろう。
しかし、「いのち」の問題であるのだ。
第二次世界大戦中、「勝った・勝った」と、事実とは反する大本営発表をそのまま「垂れ流し」た日々に、
わたしはもう二度と戻りたくはない。失われたいのちは還ってはこないのだ。
「報道の自由・表現の自由」を日頃、標榜しているメディア、である。
ここで報道しないで、いつ報道する。
同時に、原発で働くひとも、メディアで働くひとも、まずは、ひとりの「ひと」ではないか。
わたしたちが接したいのは、「大本営発表」ではなく、21世紀の「大本営発表」をどうとらえ、どう検証したか、どこに疑問を抱いたか、という「ひとの声」であり、「ひとの暮らし」であり、「ひと視座」である。メディアには、そのミッションがあるはずだ。

それはないものねだり、であるのか? 
心あるメディアのひとびとが、「シバリ」のキツさに苦悩し、
自分の居場所を模索している。取材する車に、救援物資を積んで
走り回っているジャーナリストもいる。
避難所に寝泊りすることで、そこで暮らさざるを得ない被災者の日常を「体感」しようとしているひともいるのだ。

今日、入園式のある、被災地、気仙沼の幼稚園に、
近くのセンターで止まっていた絵本を届けることができた。
園舎も失い、学校の一室を借りて入園式を行うという。

2011年4月20日水曜日

4月20日

クレヨンハウスが毎年主催する「夏の学校」に参加されたひとりの
小学校の教師から、原子力発電所の安全性を子どもたちに伝える、
「副読本」の存在を教えていただいたのは、去年のことだったか。
原発がいかに安全で、大事なものかを伝えるこの副読本の発行元は、
文科省と経済産業省資源エネルギー庁だ。原発が政・官・業・学・
メディアの一部をも含めた安全神話を垂れ流したことを考えると、
副読本の背景も見えてくる。
この副読本、2009年に初めて発行されたもので、文部科学省は、
教職員セミナーや施設の見学会などの事業に、11年度予算として
5億円近くを計上しているそうだが、副読本もその一部である。
しかし、わたしにこの副読本の存在を教えてくれた教師が言っていたように、
内容は原発推進をテーマとしたものであり、
その危険性についてはほとんど触れていない。
先日の東京新聞朝刊では、その内容について詳しく報道している。
記事によると、小学生向けが「わくわく原子力ランド」、中学生向けが
「チャレンジャー原子力ワールド」という、いまになっては嘔吐を
催すようなタイトルだ。チェルノブイリの原発事故などは紹介されている。が、
「いざという場合にも周囲への影響をふせぐしくみが
安全に守られているのじゃ」。
副読本にロボット共に登場する「博士」なる人物に言わせるなど、
言うまでもなく原発の安全神話を子どもを通して、
さらに再生産、補強するような内容である。
福島第一原発の暴走を受けて、高木文部科学相は4月15日に、
「事実と反した記載」として見直しを表明したというが、
教育委員会や小中学に配られたこの副読本を読んだ子どもたちは、
原発の安全性を信じるしかなかったに違いない。
第二次世界大戦中、教科書に載ったひとつの逸話、
立派な兵隊サンになることを母によって推奨される「水兵の母」と、
きわめて相似した、国ぐるみのキャンペーンではないか。
今回の東京新聞の記事ではじめて知ったことがほかにもある。
この副読本の冊数である。
小学生向けに3万部、中学生向けに1万部(2009年)刊行されたという。
しかし、全国のすべての子どもの手にわたるには、少なすぎる冊数であり、
彼らなら、もっと刷れたはずだし、配布できたはずだ。なぜ少ないのだろう。
原発のある地域や、これから原発そのものや原発の関連施設が
できる建設予定地を、主に想定して配られていたのではないか………。
わたしの勘ぐりでしかないのだが、もう少し調べてみよう。

2011年4月19日火曜日

4月19日

福島第一原発の暴走を報道するニュースを通して、
おおかたのわたしたちは、「SPEEDI、スピーディ」
という大気中の放射の濃度や、そこに暮らすひとびとの
被曝線量等を予測するシステムについて知ったはずだ。
「SPEEDI」は、「緊急時迅速放射能影響予測ネット
ワークシステム」のことだそうで、簡単に言ってしまえば、
放射能の影響を予測するシステムと言ってもいいだろう。
ところが、100億以上もの巨額を投じてつくられた
このSPEEDIの、放射能予測の情報が、いっさい
公開されていないことを、わたしたちはどう解釈したらいいのだろう。
所管は文部科学省だが、その名称とは裏腹に、
スピーディどころか、「非公開」であるのだ。

避難区域が「半径20~30キロ圏内」の「屋内退避指示」
から「自主避難要請」に変更されたのは耳新しい。
原発事故発生直後から、高レベルの放射線量値が検出されていた、
と今頃になって言われても………と住民が困惑し、憤るのは当然だ。
計画的避難区域になるまでは、避難の「対象外」に置かれてきたのだ。
なにも知らされていなかった住民や自治体が困惑し、混乱するのも理解できる。
「なぜもっと早くに教えてくれなかったのか」
「直後からわかっていたなら、どうして教えてくれなかったのか」
「隠していたのか? 住民を見殺しにするのか」
「小さな子どもがいるのに、もっと早くに手を打つこともできたのに、
今までなぜ黙っていた!」
すべてまっとうな憤りである。
4月11には、「計画的避難区域」と「緊急時避難準備区域」に分割される
であろう予定も示され、住民はさらなる混乱の渦の中に放り込まれた。
これら「計画的避難区域」や「準備区域」などの分割は、SPEEDI等の
情報をもとにしているはずだ。
自分たちは手にしたSPEEDIの予測影響情報を使いながら、住民や
市民には非公開としているのは、なぜなのか。
「社会的混乱を避けるために、軽々しくオープンはしない」というようなことを
原子力安全委員会の委員長は記者会見で述べてはいたが、
「社会的混乱を招いている」のは、政府と相変わらず
「原子力ムラ」の専門家たちではないか。
「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム」の「緊急時」も「迅速」も
「ネットワーク」という名もすべてを裏切り、隠蔽である。
余談ながら「自主避難」要請というのも、妙な言葉だ。
………あなたがたは、「自主的」に「避難」したので、責任は持ちません………。
最初から エックスキューズしているように感じるのは、わたしだけか?

2011年4月18日月曜日

4月18日

わたしたちが置かれた現実を知るのはおそろしいことではあるが、
「知らない」こと「知らされない」ことはなおさら、わたしには
恐ろしいことのように思える。

『週刊現代』4月30日号は、「原発列島ニッポンの恐怖」という
なかなか読みごたえのある特集を組んでいる。

特集には、今月のはじめにこのブログにわたしも書いた、
3月30日に元原子力安全委員会の16名が提出した「建言」に
ついても、フォローした記事がある。

原子力安全委員会といえば、言うまでもなく原発推進派である。
少なくとも過去に、推進のために「動いた」ひとたちである。
その推進派が緊急に建言をしたのだから、それほどまでに福島第一
原発は危機的状況にあると言わざるを得ない。にもかかわらず、
その建言を報道した記事をわたしはまだ見つけられないでいる、
というブログを書いたのだった。状況は刻々と変化し、
3月30日と現在とではまた違っているが。

『週刊現代』4月30日号によれば、「だが、覚悟の『建言書』は
メディアにも政府にも無視された格好だ」という。
4月1日に彼らが開いた「記者会見には多くの記者が集まったが、
取り上げたのはごく一部のメディアだけ。政府にいたっては、
その建言書の受け取りさえも拒否したという」と記事にはある。

原発を推進してきた「原発ムラ」の一員であった専門家の建言で
あるために、見出しコピー(編集部がつけたものだと思うが)の
次の文言はより心に迫る。
……「原発は安全だと言い続けた私たちが間違っていた」……。
いまさら、という気持ちも正直ないではないが、記事に記された通り
なら、政府はなぜ建言書の受け取りを「拒否」したのだろう。

さらにこの特集には、自民党の河野太郎議員も登場する。
例によって見出しから紹介すると……、
……「原発反対の私が受けた嫌がらせの数々」……。
インタビュー記事にまとめたのは編集部だろうが、彼は次のように発言している。

「……ほとんどの議員はその程度の理解力で、いわば原子力政策の
負の部分に目をつぶり、利権にしがみついて原発を推進してきたのが
過去の自民党なのです」(太字、筆者)

「現在の自民党議員」の彼がそういうのだ。
以前にも書いたが、原子力発電は、政・官(現・経産省)・業界・
アカデミズム、そうしてメディアの一部も加わって推進されてきた。

原発が安全だという「神話」は完璧に崩壊したいまでも、
こんな言葉が聞こえる。いたずらに不安を煽るのは問題だ、と。
一面の真理であることまで否定する気はない。
しかし、こうは考えられないか?
最悪の場合を想定し(もう、「想定外」という言葉は使えない)、
その結果が「憂慮したほどではなかった」というのなら、わたしたちは
祝杯をあげようではないか。被害を小さく見積もって、結果が最悪で
あったときのほうがはるかに罪深いと言えないか?
少なくともわたしはそう考える。そのためにも、わたしは「すべて」を
知りたい、一市民として知る権利があるのだ。

節電のせいで、都会のあちこちに突如できた暗がりで、若い女の子と
男の子がキスをしていた。邪魔をしないように、そっと通り過ぎて、
わたしは思う。彼女と彼が三十代、四十代、そして現在のわたしの年代に
なっている頃、この社会はどんな時代を迎えているだろうか。

いや、何十年後ではない、わたしたちは明日すら見えない今日を
生きているのだ。

2011年4月17日日曜日

4月17日

ひとつ、ふたつ みっつ
あの子は 星を数えている
カーテンのない窓から見える 遠くの星を
目を閉じると 
ばあちゃんを連れ去った 大きな黒い怪物がやってくるから
この、同じ夜の中で

四頭、五頭、六頭、
おやじは、眠れないまま 牛を数える 
突然の避難勧告
首を横に振り、抗ってはきたけれど
結局は残してくるしかなかった 濡れた眸たち
この、同じ夜の中で

七匹、八匹、九匹、
痩せた犬たちが歩いている
腹をすかし、泥にまみれた犬たち
首のまわりに 愛された日々の名残りの
汚れた首輪を巻いたまま
瓦礫の中に 犬たちは 誰を 何を 探す
この、同じ夜の中で

あと幾つ夜を重ねたら
あと幾つ朝を迎えたら
あと幾つ季節を見送ったら
あと幾つ年を迎えたら………

眠ることは
こんなにも難しいことだったのか 
この、同じ夜の中で

2011年4月16日土曜日

4月16日

被災地の子どもたちに本を送る活動「HUG&READ」
の活動が続いている。
大事な思い出のある本を送っていただき、本当にありが
とうございます。
「HUG&READ」の活動は、むしろ「これから」という
思いが日に日に強まっている。
わたしは専門書店の代表であり、自らも本を書いている
が、本が人生のすべて、とは思えない。
いまこの瞬間、切実に別の何かが欲しい、と祈るように、
叫ぶように思っている子もいるはずだ。そのことも充分承知
の上で、それでも「HUG&READ」の活動は続ける。
その子がためらいがちに、欲しいものに手を伸ばすとき、
背中を少しだけ押してくれる「何か」に光を当ててくれる
ものが、本の中にはあるはず、と信じて。

友人の評論家から昨日も電話があった。
「気仙沼の幼稚園だけど、園舎もすべてが流され、近くの
小学校の校舎を仮住まいとして、延期した入園式が来週
あるんだ。そのときに絵本があると嬉しいと言っている
のだけど……。できたら150冊あると、と」
{HUG & READ}はクレヨンハウスの小さな組織
だからこそ、こんな時の対応は早い。煩雑な手続きも不要だ。
その日のうちに荷造りして、入園式に届くよう、本日宅急便で
発送する。
ひとりひとりが自分のできることから始めるしかない、
のだと思う。
それでも、原発の暴走や後手々々に回わりがちな政治の無策を
しっかりと見据える視点と姿勢も忘れてはならないはずだ。
何かをしているから、何かをしたから、こっちの何かは忘れ
ていい、置き去りにしていい、といったことではない。

新聞社で働く知人が言っていた。
「シナリオ通りに、すべてが進んでいるようで怖い」と。
彼が言うシナリオとは………。未曾有の大震災。その悲惨
きわまりない状況のレポート。しばらくそれらが続き、やがて
復興記事に、と……。メディアはシナリオ通りに進んでいく、と。
確かにそんな流れを感じる。

「読者は、視聴者は、いつまでも悲しみと喪失だけを求めて
いるわけではない」というのがシナリオの説明で、確かに一理
あるのだがしかし。
個々の人生はシナリオ通りにはすすまない。
風の冷たさや強さ弱さが伝わらない、匂いのない画像に狎れてはならない。
テレビカメラや新聞の記事では充分には写し取れないひとの
悲しみ、喪失、無念さ、憤り。それらをむしろシナリオにあわせて、
強引に「復興の流れ」にもっていくとしたら、
あまりにも残酷であり、お気楽過ぎる。
メディアが掬いとれないところにこそ、ひとりひとりの悲しみが、
無念さがあり、人生がある。そのことをわたしたちは、
しっかり心に刻んでおきたい。

暴走が止まらない原発を「安い」、「安全」、「クリーン」、
最近は「CO2」を排出しないという理由で、推進してきたこの国と「原子力村」。
この官僚組織と業界と学会、そしてメディアもまた決して無実ではない。
わたしたちはいま、メディアを読み解く力、メディア・リテラシー
を自らの中に育てる意志が必要だ。

2011年4月15日金曜日

4月15日

被災地で、避難所で、周囲の大人たちを手助けしながら
元気に振るまう子どもたちの姿が、メディアで次々に紹介されている。

食べものや水を配る子。避難所の掃除をする子。
お年寄りに手を貸す子……。子どもたちも頑張っている。
そして、子どもたちが見せる、輝くようなあの笑顔。
血縁であろうとなかろうと、そこに子どもがいるだけで、
明日の見えない闇の中に立ち竦む大人たちに、一瞬の元気や
安堵を贈ってくれる。それは事実だ。
子どもは確かに、わたしたち大人の、未来形の夢の形だ。
元気な子どもの姿に、被災地を離れて暮している(いつも後ろめたさを覚えるが)
わたしたち大人も、元気のお裾分けを贈られている。

しかし、と思う心配性のわたしがここにいる。

元気な子どもを、メディアはそんなに「評価」してはいけない
のではないだろうか、と。
子どもは評価されればされるほど、その評価に応えようとする。
もっと、もっと、もっと、と。

テレビのカメラの被写体になることは、子どもたちにとっては、
たぶん生まれてはじめての、刺激的な体験であるだろう。だから
より一層、子どもは応えようとする。もっと、もっと、もっと
元気に、もっと「頑張ろう」と。

思い出してみよう。あなたが、わたしが、子どもだった頃のことを。
周囲の大人から贈られる評価が、どれほど嬉しかったかを。
書き取りをするときも、絵を描くときも、掃除当番のときも、
ソフトボールをするときも、「よく頑張ったね」という大人の評価を
どこかで求めていた。それ自体を否定する気はないが、しかし……。
子どもは、子ども自身の人生を生きながら、大人の評価を得るために、
その人生の一部を(時にはすべてを)捧げることさえあることを、
わたしたち大人こそ忘れてはならない。
泣きたいときも、憂鬱なときも、悲しいときも、「いい子」であることを
評価されつづけた子どもは、もっと「いい子」でありつづけようとするだろう。
そうして、率直に自分に感情をだすことができなくなる。わたしにはそれが怖い。

オーストリアの精神分析医W・ライヒが提唱した「ある状態」に、
character armor「性格の鎧」というのがある。
親子関係の中で主に幼少期に形成されるものだとライヒは唱えたが、
わたしは親子関係の中に限らず、多くの子どもと大人の関係の中にも
それは潜むものだと考えている。
周囲の期待に応えられるように、習慣の中でつくり上げた仮りの性格が
いつの間にか、自分の性格になってしまう。
「元気な子」、「いい子」、「健気な子」、「よくお手伝いする子」
という評価が、子どもの心に「期待される自分像」として定着し、
やがてそれがその子の性格の「鎧」になる……。そして、自分の感情、
泣きたい、叫びたい、不機嫌でいたい、動きたくない、という
当たり前の感情や反応さえ、閉じ込めてしまう場合がある。

いつの間にか身につけた、あるいは身につけざるを得なかった日常の
習慣が、「性格化」することは避けたい、と、周囲に元気を振りまく
子どもに感謝しつつも、そんなに頑張ることはないよ、泣いていいんだよ、
といま伝えたいわたしがいる。
さらにメディアは次々に「善意」や「健気」をクローズアップして、
大切な何かを、いのちそのものにかかわる何かを隠している(意図的で
あろうと、無意識であろうと)のではないかといぶかってしまうわたしがいる。

2011年4月14日木曜日

4月14日

被災地の子どもたちに本を送るわたしたちの活動、「HUG&READ」を
立ち上げて、新しい形のネットワークができつつあることを実感している。

長い間、いろいろな運動体にかかわってきた経験から、
今回の「HUG&READ」を立ち上げるについて、幾つかの自分との約束を決めた。

1・この活動は、むしろ「これから」といつも考えておくこと。
ここまできたら、いいや、と思わないこと。
途中で、おりないこと。
最後の一冊が、たとえ来年、あるいは数年先にわたしたちの手元に
届いたとしても、被災地の子どもに送ること。
手をあげるのはむしろたやすい。続けることが基本だ、と。

2・本をお送りくださった個人はもとより、出版社にも、
できるだけ早く「受けとりました」というご連絡をまずすること。
それぞれが忙しい日常の中で、わたしたちの活動に共鳴して、
わざわざ本を送ってくださっている。育児中のかたからも
沢山いただいてきた。介護中のかたもいらっしゃる。

一段落したところでご報告とお礼の手紙はむろん予定しているが、
その前に、まずは「受け取りました!ありがとう」をお伝えしたい。
それが、プロジェクトを立ち上げた責任だと考えた。

ちょっとおおげさなもの言いをしてしまうと、この活動を通して、
運動体が持ちやすい、ある種の性格のようなものを変えたいという
密かな思いがあることも確かだ。

言葉にすると、「なんだ、そんなこと」になるのだが、
「丁寧に、デリケートに、かつ敏速にタフに」である。
「敏速」を優先させると、「丁寧にデリケートに」が後回しになる。

「タフ」のボタンをかけ違えると、「雑に」なる。
これらは、かつてわたしがかかわった様々な運動の中での、
自らへの反省から生まれたものだ。

理想も志も素晴らしいのだが、センシティブな人間関係を
後回しにして動きだすと、結局は、誰かが傷つく。理想や
志のためなら、少々のトラブルは仕方ないとするか、
理想や志があるなら尚のこと、少々のトラブルも排していく
努力を続ける意志の力を、プロジェクトそのものがどこまで
持続できるか、だ。

老眼のわたしには、日に日に増えていく電話のリストをもって
(かけがえのない個人情報だから注意して)、仕事の移動の間に
電話をかけ続けると、目はしょぼつくし、声は枯れる。

それでもお礼を言うべきわたしが「ありがとうございます、何か
したかったのに、納得できるやりかたが見えずに自分を責めていました。
ひとつひとつ電話してるんですか?大変でしょう。ご自愛ください」
と、かえって労わっていただき、恐縮する。
「本の仕分けぐらいお手伝いしますよ。ボランティアが必要なときは、
ブログで募集してくださいね。すぐに駆けつけます」
そんなやさしい励ましにも出会える。
「84歳で、なんにもできない自分がいやになって
いたんですが………。ありがとう」
そんな言葉に出会うたびに、胸がいっぱいになる。

ドイツの脱原発のデモ25万人、などという報道に接すると、
「この国は………」と落ち込むが、いやいや、そんなことはない。
「市民」は素敵だ、みな、「自分にできること」を必死に探している。
それぞれの事情があって、立ち上げた活動を一時休止というところも
あるようだが、「HUG&READ」はこれからも続けていく。

のどアメ舐めながら、老眼鏡を作り直さなくてはならないな、と思いながら、
「あの子」の気持ちをHUGするために、「あの子」が胸に一冊の絵本を
HUGする瞬間に向けて、落合、電話と親密な日々を続けている。
しかし、電話もなあ、使いすぎては電力問題なんだよなあ、と思いつつ。



ところで、「原発暴走」(暴走させたのは、わたしたち人間だ)
のニュースがなぜか少々トーンダウンしたように感じるのは
わたしだけか?

復興はむろん基本だが、不安は多々ある。福島の第一号原発がいま
どうなっているのか。危険なこと、パニックになることは
「市民」に知らせず………という従来の原発事故のありかたを考えると、
懐疑的にならざるを得ない。なにか隠していないか?と。

エイドリアン・リッチの言葉ではないが、具体的に嘘をつかなくとも、
「沈黙でも嘘をつく」ことはできるのだ。妙に沈静化した報道を
みていると、この「沈黙という嘘」という言葉を思う。

さらに、この国の原発の専門家と呼ばれるひと、
技術者と呼ばれるひとたちのほとんどは、福島原発に、その存在も
その意識も集中させているのが「いま」だろう。
そんなときに、この国に50数個もある、どこかの原発に何か
トラブルが起きたとしたら………。どうするのか。
素人でも、なぜいまになってこんなことを?と思うようなミスや
トラブル続きの福島原発の暴走を見ていると、どこかで同じ類の
トラブルが起きないという保障はない。
そのとき、誰がどのチームが駆けつけるのか。無人ロボットさえない
(アメリカのそれも結局は使えなかったと報道にはあるが)、この国は
またもや「想定外」で目を逸らすつもりか。

津波や地震だけではなく、原発そのものの「老朽化」もすすんでいる。
いつ、どこで事故が起きても不思議ではない。
この地震列島で、原発が可能にしたものは一体何だったのか。
そして奪ったものは?

「安全に操業を復興」することが、わたしたちのこれから、なのか。
「原発は安全だという神話」が崩壊した今もなお、それを言いつづけるのか。

2011年4月13日水曜日

4月13日

大震災、そしてわたしには人災としか思えない原発事故について、
取材を受ける機会が多い。先週は、ジャパンタイムズの記者の
かたとお目にかかった。女性である。

お互い向かい合って話をしながら、ふっと言葉が途切れた
彼女を見ると、涙ぐんでおられる。
「涙ぐんで、それでどうなる!」と聞かれれば、どうにもならない
ことは充分承知だが。人として、自らの非力を痛感する現実の前で、
それでもなお「人であろうとする」その姿勢には心から共感する。

彼女は、被災地・岩手で応援歌のように歌われている歌がある、
という保育園の園長さんからいただいた知らせに、取材に見えたのだ。
中川ひろたか作曲、新沢としひこ作詞、クニ河内編曲、
わたしたちが1990年に製作した『空より高く』だ。

先夜、ニュース番組を観ていたら、被災地の高校の卒業式で
この歌が歌われている場面にも出会った。

自ら被災地の住民でありながら、岩手の保育園の園長さんは、
園児たちが歌ったこの歌をカセットに録音し、
地元のラジオ局に送られたそうだ。

「ぼくたちは ちいさくて なにもできないけれど 
このうたを うたいます」という、園児のひとりのメッセージから
始まる歌声は、てんでんばらばらだけれど、だからこそ心に響く。

日本中の子どもたちの、十年後、二十年後、三十年後、
五十年後を想う日。自分のいのちにかかわるものを、
いかに自分に引き寄せ、いかに選択するか。

わたしたち大人はいま、問われている。

2011年4月12日火曜日

4月12日

被災地の子どもに本を贈ろうと立ち上げた、わたしたちの
「HUG&READ」もっと抱きしめよう、もっと読んであげよう。
個人からの寄贈も増えている。ありがとうございます。

ありがたくて、まずは、ちゃんと到着しました、と
送ってくださったかたがたにお伝えしたくて、
ご報告とお礼の電話をかけている。
小回りが利く小さな組織だから、できることもあるのだ。

電話口に出られたかたは、みな一様に3・11のあの瞬間から、
「自分にできること」を考え、悩んでこられた。
ACジャパンのコマーシャルに呼びかけられるまでもなく、
それが「市民」の心情であるだろう。

お礼を申し上げると、反対にお礼を言われたりして、恐縮する。
本を詰めたダンボールに、被災地のかたがたへのメッセージや
絵(子どもたちの)をかいて下さっているかたがたも多い。

それら倉庫に到着したダンボールを開けて、本がだぶらないように
区分けし、一緒に活動をしている「Save the Children japan」や、
被災された方々に直送する。

お孫さんを、HUGしながらREADした本を、という祖母。
やがて迎える子どものために絵本を毎月1冊ずつ買ってきました、
とおっしゃる若いご夫婦。長年保育士をされている女性。

「母の介護がなくなれば、ボランティアで被災地に入っていたと
思いますが」とおっしゃる阪神の女性………。
一冊、一冊に心がこもった本たちである。

「HUG&READ」の活動内容は日々、本ブログに
発表させていただいている。

「こんなことをしなくていい日」が平和で平穏な社会だが、
「こんなことをしなければならない日」の中に、
市民の目線の暖かさと深さと切羽詰った思いが、こんなにも。
やたら涙ぐむ瞬間が増えた。

2011年4月11日月曜日

4月11日

『まるで原発などないかのように』(原発老朽化問題研究会・編、
現代書館・刊)を読む。
2年ほど前に購入し一度読んだものだが、いま読み直してみると、
本書の警告をもっと多くの人々が自らのものにしておいたら………。
と、無念きわまりない。

今回の東日本大震災のような、大地震や大津波に限ることはない。
「老朽化」した原発は危険極まりない。
あるいは、老朽化しなくとも、そもそも原発は何が可能なのか、
という基本の問いを、わたしたちに投げかけてくれる。

第一章 はびこりはじめた「安全余裕」という危険神話
この章を書かれている田中光彦さんはフリーランスのライターで
いらっしゃるが、九年間,民間企業で原子炉圧力容器の設計などに
従事された体験がある。
第二章 材料は劣化する-大惨事の温床
第三章 原発の事故はどう起こっているのか
第四章 中越沖地震と東京電力柏崎刈羽原発
第五章 東海地震と中部電力浜岡原発-運転差し止め一審裁判の概要
第六章 原発は正しい選択だったか

本書のタイトルが示すように「まるで原発などないかのように」暮して
きた多くのわたしたちにとって極めて重要な「いま」と「未来」を
示唆してくれる書である。

2011年4月10日日曜日

4月10日

井上ひさしさんが亡くなって、一年がたった。
その作品はもとより、反核・反戦・反差別、食糧の自給率の問題など、
わたしたちに深い示唆を贈ってくださったかただった。

クレヨンハウスが毎年主催する「夏の学校」。
資料がたくさん入ったエコバッグを手に登壇されて、
子どもが言葉を獲得する過程について、むろん憲法九条について、
笑いをまじえながら、素晴らしく豊かに深い講話をしてくださった。

いま、ここに、井上さんがおられたら………。
被災地の子どもに贈るわたしたちのプロジェクト「HUG&READ」に
個人で本を寄贈してくださるかたがたからのメッセージを読みながら、
ふっと思う。
「市民」を信じ、「市民であること」の意味を、
わたしたちに問いつづけてもくださった偉大なる存在だった。

クレヨンハウス東京の一階、子どもの本のフロアでは、
井上さんの書籍コーナーを常設している。
親子で、本を開くかたがたが多い。
講談社から井上さんの、子どもたちへのメッセージ
『「けんぽう」のおはなし』(井上ひさし/原案、武田美穂/絵)
がこの4月に出版された。

多くの地で首長選が実施される。
こんな時代は「強さ」が求められがちだが、
「小さな声」を踏み潰し、強者の論理を押し付ける首長に
わたしは、わたしの一票を使わない。

2011年4月9日土曜日

4月9日

………「ヒーロー」を作ってはいけない………

「ヒーロー」が待望される社会は、決まって
不穏で不安な時代である。
市民にとって、暮らしやすい時代では決してない。

福島原発の危険きわまりない現場で
日夜作業に従事するひとたちには頭が下がる。
しかし彼らをを「ヒーロー」に祭り上げることは、
ことの本質を隠蔽することにならないか。

原発の事故がおきなければ、
そうして、わたしたちが原発の危険性にもっと
センシティブであったなら、違った選択をしていたら………。
「彼ら」は、「いま」、「いのちがけ」の作業
に従事する必要などなかったのだ。

たったひとつしかない「いのち」をかけることの
無残さ、無念さ、残酷さこそ、わたしたちは
考えるべきではないだろうか。
東電の「協力会社」(呼び方を変えただけのことであり、
「下請け」「孫請け」であることに変わりはないだろう)の代表が、
テレビのインタビューで語っていた。

「ヒーローなんかになりたくはない」
「安全だと言われ、安全だと信じていた」
「お年よりに(原発は)大丈夫かい? と訊かれると、
安全じゃなかったら、原発から六キロのところに
俺だって住まないよって、ずっと言ってきた。なのに!」

子どもがいるだろう。老いた両親もいるかもしれない。
愛する妻だって。そんな、わたしたちと同じ生活者が、
「いのちがけ」で危険極まりない作業をしたい、と誰が思うか。

インタビューに応えた、この協力会社の代表の顔には
モザイクがかかっていた。
なぜ彼は、顔にモザイクをかけ、名前をだすことなく、
インタビューに応じたのか。そこにこそ、
強大な力学があることを忘れてはならない。

「ヒーロー」は要らないのだ、もしわたしたち
の暮らしが本当に安全と安心に充ちていたなら。

2011年4月8日金曜日

4月8日

………なにをいまさら………

3月30日、元原子力安全委員会のメンバー16名が
緊急の建言を提出した。
「まずは国民に謝罪する」から始まる、この建言を報じた
メディアはどれほどあっただろう。

注意深く各新聞をチェックしていたが、見当たらなかった。
もしかしたら、わたしが見逃してしまったのかもしれないが。
原子力安全委員会のメンバーといえば、当然ながら原発を
推進してきたひとたちである。

今さら「謝罪」されてもなあ。深刻きわまりない現実を考えると、
思わずそう言いたくなるが、問題は、推進してきたメンバーでさえ、
謝罪したくなるような「いま」が「ここ」にあるという事実である。

3月11日以降の、たとえばテレビに登場する「専門家」たちの、
コメントも注意深くチェックしていれば、微妙に変化していること
に気付くはずだ。

安心を連呼していたのが、当初の専門家だ。
安全神話が崩壊している現実を目の前にしながら、安心だと
いまさら主張されてもなあ。

最近は流れが少し違って、四月に入ってからは、「事態は深刻」、
「収束は長期化するであろう」派が主流になっている。
一貫して「脱原発」を訴えてきた専門家の「出番」は
まだまだ僅かであることは無念だが。

総理大臣でも、どこどこ大学、大学院教授でも、なんとか
委員でも、まずは市民だろうが、と腹を立てること自体、
「なにをいまさら」、なのかもしれないが。

2011年4月7日木曜日

4月7日

………精神論という罠………

東日本大震災以来、精神、ともいうべきものが
幅をきかせている。
みんなでひとつになれば、なんとかなる………。
日本の力を信じている………。

確かに、そういう側面も大事かもしれないけれど、
まずは、被災したひとたちに、どれだけ早く、潤沢に
医薬品や日用品を届けるかでしょう。
ばらつきはないか? お風呂は? 仮設住宅は?
暴走した原発のその後は? 充分な情報開示は? 放射能は?
第一次産業、農業や漁業に従事されるかたの明日は?
へそ曲がりのわたしは、首を傾げる。

「頑張れ」、と連呼されなくとも、これ以上頑張れないほど、
被災地のひとたちは頑張っているではないか。
むしろわたしは、「そんなに頑張らなくてもいいよ」と伝えたい。
頑張りすぎてはいけないのだ、と。 
団結を強調する傾向も、みんなで我慢しよう風な公共CMも、
なんとも落ち着かない。

欠如と欠乏の中で、それでも柔らかな団結を求め、
実行しているのは被災地のひとびとである。
誰に言われなくとも、内発的に。

被災地に向けてではないにせよ、我慢を強調する流れは、
わたしには「欲しがりません、勝つまでは」に聞こえる。
第二次世界大戦時の、スローガンと重なるのだ。
我慢を美徳とされ、我慢を賞賛され、我慢を実行し、
そうして市民は死んでいったのだ。

海外のメディアが被災地のひとたちの「我慢強さ」を
たたえたという報道が震災直後、日本のメディアでも
大きくとりあげられている。

多くの犠牲者をだし、家族の安否も定かではない状況で、
自ら深い傷を負い、必要な手当も受けられず、
厳寒の中で暖もとれない状況にいるひと。
そのひとたちが必死に、それでも隣人を慮って生きる姿は、
たしかに感動する。頭が下がる。

しかし、それを、「美談」にするのは危険ではないか。
彼らの多くは、喜んで「我慢」をしているのではなく、
「我慢」を強いられているひとたちである。自らが
「我慢」することで、より過酷な状況にいる隣人たちに
手を差し伸べようとしているひとたちである。
そうすることで、なんとか今日を明日につないでいこうとしているのだ。
公共広告機構に引用されている、金子 みすゞや宮澤章二は、
果たしてそれを望んだろうか。
政治や電力会社の、後手後手に回る政策や、
情報開示にはほど遠い現実が生み出す混乱まで、
わたしは「我慢」したくはない。

精神論を多用し、「民」を支配してきたのは、誰なのか。
そうして、精神論を利用してきたのは、誰なのか。

2011年4月5日火曜日

4月5日

「安全」から「安心」へ。神話はさらに作られる

「安全神話」をタテに、原発推進を勧めつづけていた
元原子力安全委員16名が、緊急の「建言」を提出したのは
3月30日のことだった。

原発の「いま」はきわめて深刻な状態である、と。
推進をした専門家すら、そう建言せざる得ないのが、
わたしたちの「いま」である。にもかかわらず、
この「建言」を報道したメディアがどれほどあったのだろう。
注意深く、新聞やテレビをチェックしているつもりだが………。

わたしが見落としたのか、それらを報じる記事や
番組内でのコメントにまだ出会えていない。
単なる見落としかもしれない。けれど、この「建言」は、
なんらかの意図のもと、ニュースにならなかったのではないか………。
どこかで、懐疑的になっているわたしがいることも確かだ。

「過少評価」されてきた、いままでの原発事故を考えると、
より神経質にならざるを得ない。
風評被害に気をつけろ、と政府は言う。確かに
風評被害はおそろしい。奇しくも関東大震災の時も、
風評によって、多くの在日のかたがたが被害に遭った。
大震災という自然災害を、「暴徒化した」彼らの仕業
だとする風評が流れたためだ。
風評はそれゆえに気をつけたい。しかし、原発事故に
まつわる様々な噂は、わたしたち市民が充分にして
正確な情報を得られていないのではないか、という
不安と不信から生まれる部分も少なからずあるはずだ。

今までがそうであったなら、いまが例外と誰が保障してくれるのか。

眠れぬまま、3月末には「災害ユートピア」(R・ソルニット著、亜紀書房 刊)を読んだ。
サンフランシスコ地震、ハリケーン、カテリーナ、そして9・11のテロ等、{HELL}(原題に入っている地獄、という意味)を生きた人々を取材したノンフィクションだ。

自らがこの上ない大惨事の中にありながら、ひとはなぜ、ほかのひとに手を差し伸べようとするのか。自らも深く傷つきながら、ひとはなぜ、より過酷な状況にあるひとのために役立とうとするのか…。

本書に登場するひとびとの姿と、東日本大震災で
被災されたかたがたの姿が重なる。
ひとはやはり、信じるに足る存在である。しかし、
政・官・業・学・メディアが一体となって流布してきた「安全神話」は………。
それが崩壊した今度は、「安心神話」を流布しようというのか。
ここ数日、専門家のコメントも微妙に変化してきているが。

「安全」から「安心」へ。神話は大震災の中でも、
こうして作られ続けていくのか。

2011年4月4日月曜日

4月4日

わたしたちは3月11日に、新しい誕生の日を迎えました。
喪失と悲しみに充ちた誕生日です。

「re」という接頭語が、英語にはあります。「……し直す」という意味です。
わたしたちは考え直し、捉え直し、見つめ直し、構築し直すことが、いま必要ではないでしょうか。
甘庶珠恵子さんの、あの本のタイトルを借りるなら、まさに「まだ、まにあうのなら」(地湧社)ですが。

「弱肉強食」の社会、より多く持っているものと、
より少なくしか持てないものが「分断される社会」、「優劣をつけられる社会」、格差社会のありかたそのものを、わたしたちは果敢に問い直していかなくてはなりません。
まだ、まにあうのなら。

今回の未曾有な自然災害の現状をさらに酸鼻にした原発そのものを、わたしたちは考え直さなくてはならないでしょう。

わたしは、福島原発10機の即刻の廃炉を求めます。
今回のような大地震や大津波がなくとも、この地震列島に、そもそも原発は可能だったのか。
いまは被災者への支援が優先であることは言うまでもありませんが、「安全神話」が完全に崩壊したいまこそ、わたしたちは{re}の思想と姿勢で、持続可能で、真実、安全な、暮らし方を再構築していくことが、この大災害から学ぶべきであり、それが市民であるわたしたちの「責任と権利」ではないかと考えます。
自然災害がなくとも、老朽化した原発は危険です。新しいものでも、原発は危険なのです。
こういった考えを「非科学的」としたひとたちが、原発を推進してきたのです。
コストが安く、クリーンで、CO2を排出しないのが原発である、と。
ウラン採掘の時点からCO2は排出しているにもかかわらず、です。
その結果が、わたしたちの「いま」なのです。

「絶対」などあり得ません。
いつの時代でも、どの社会でも、「絶対」を喧伝してきたのは権力者であり、
その「絶対神話」が崩壊したとき、最も苦しむのは市民です。
危険な放射能物質を放出し続ける原子炉で、いのちをかけて作業されている方々には心より感謝します。ご家族の思いはいかほどでしょう。
しかし、本来、彼らは「そこ」に居てはならないのです。
こんな生命がけの作業を、誰かにさせてはならないのです。
彼らは、「ヒーロー」になってはならなかったのです。

わたしたちと同じ志の仲間、福島で有機農法に長年取り組まれ、
素晴らしく見事な野菜を作り続けてこられたかたが、自死されました。
誰よりも土と会話してきた彼にとって、
土はすでに「会話」のできる存在ではなくなっていることに気づいたのでしょう。

すべての、それぞれの「いのち」のために、祈りましょう。
同時に、祈っているだけでは社会は変わりません。
{re}の思想と姿勢と実践を、いま、ここから、
「あなた」から、「わたし」から考えていきましょう。

スリーマイル島の原発事故以来、わたしたちは上映会や、わたしたちが編集している育児雑誌『クーヨン』を通して「脱原発」のささやかな活動に取り組んできました。
この数年間、わたしたちも年を重ね、力不足になっていたことも確かです。

いまこれを書いているわたしは66歳です。
充分と言いきれなくとも、ここまで生きられた、生かされてきた、という実感があります。
たとえ何があっても,受け止める覚悟はできています。
けれど、小さな子どもたちを見ると、その愛らしい盆の窪や、膝頭を見ると……。
こんな大惨事は二度とごめんだ、と叫びたくなります。

日本には54機の原発があります。わたしたちはこれからもずっと
「次はどこか?」と怯えながら恋をし、子を産み、育て、介護や看護を続けていかなければならないのでしょうか。それを、「日常」と呼ばなければならないのでしょうか。
ドイツでは脱原発の25万人デモが行われました。

繰り返しますが、いますべきことのすべてに人事を尽くしつつ、
けれど、一方で考えていきましょう。
まだ、まにあうのなら。

April 4 (English translation)


We experienced the birth of a new day on March 11, 2011.
A day full of loss and sadness.
The English language includes a certain prefix, "re". This prefix conveys the meaning of "doing over again."
I believe that we need to do now is to re-think, re-consider, re-envision, and re-build.
To borrow the words of the title of one of Taeko Kansha's works, "as long as there is still time" (Japanese title: Mada Maniaunonara) (Publisher: Jiyusha).
We need to boldly ask ourselves again how to fix our society, a society of disparities, a society governed by the law of the jungle, a society divided between the haves and the have-nots, a society that grades people as inferior or superior.
As long as there is still time.
We need to reconsider nuclear power plants, which so much worsened the unprecedented natural disaster Japan suffered on March 11, 2011.
We ask that the 10 reactors of the Fukushima I and II Nuclear Power Plants be decommissioned immediately.
Even if we had not experienced a giant earthquake and a giant tsunami as we did, nuclear power plants should never have been allowed on our earthquake-prone archipelago.
It goes without saying that assistance to the victims is the priority now, but now that the "safety myth" has completely collapsed, I believe that we must learn from this catastrophe and strive to rebuild the way we live to be sustainable, true, and safe, and that this is "our responsibility and our right" as citizens.
Even in the absence of natural disasters, aging nuclear power plants are a danger. Even new nuclear power plants are dangerous.
Those who held such way of thinking to be "non-scientific" promoted nuclear power.
They tell us that nuclear power is economical, clean, and does not cause CO2 emissions.
Even though CO2 is emitted from the moment uranium is mined.
The result is the "now" we are currently in.
 "Absolutes" are not possible.
In all ages, in all societies, it is those in power who have been touting "absolutes," and every time it is citizens who have suffered the most when the "myth of the absolute" has collapsed.
I am truly grateful to all those workers toiling at the damaged nuclear reactors continuously spewing dangerous radioactive substances. I cannot begin to imagine how worried their families must be.
However, they should not have to be there in the first place.
Nobody ought to be made to perform such life endangering work.
In truth, all these workers never ought have become "heroes."
One of our fellows who shared with us the same aspirations had been engaged in organic farming in Fukushima for many years and naturally planned on going on producing wonderful, marvelous vegetables, but he killed himself.
He who more than anyone else conversed with the earth likely realized that the earth was no longer capable of "conversing."

Let us pray for the "life" of all things.
And yet at the same time, realize that just praying will not change society.
Let us think about the concept, attitude, and practice of "re", now, here, you and me.

Ever since the nuclear accident at Three Miles Island, we have been working on modest activities to get rid of nuclear power plants through screenings and the "Cooyon" childcare magazine we have been editing.
Over the past few years, as we advanced in age, our number has grown smaller.
I who am writing this am 66 years old.
Even though I don't have the words to fully express this, I really feel that I have come a long way, lived and been made to live through a lot up to this point.
No matter what happens, I am prepared to face it.
But when I look at small children, when I see their adorable and innocent faces...
I feel like shouting, "Never again should we go through such a catastrophe!"
Japan has 54 nuclear power plants. Do we have no choice but to forever worry about "where next?" while we fall in love, bring children into this world, raise them, and care for and nurse our elders?
  Do we have to call this "normal"?
In Germany, 250,000 people got together to demonstrate against nuclear power.
Again, let us spare no effort on what needs to be done at present, while also carefully considering our course.
As long as there is still time.
※ Keiko Ochiai's Blog  "Journal of Silent Spring" http://journalofsilentspring.blogspot.jp/